山陰亭

原文解説口語訳

『菅家文草』03:187

北堂餞宴、      北堂の餞宴せんえんにて、
各分一字〈探得遷〉  おのおの一字を分かつ〈探りて遷を得たり〉

我将南海飽風煙  我 南海に風煙にかんとす
更妬他人道左遷  更に妬む 他人の左遷なりとはんことを
倩憶分憂非祖業  つらつら おもふ 分憂ぶんいうは祖業にあらずと
徘徊孔聖廟門前  徘徊す 孔聖廟門の前

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解説

 讃岐守に任じられるまで、道真は8年間余文章博士もんじょうはかせとして大学寮で教鞭をとっていました。そこで赴任に際し、学生や仕事仲間が紀伝道の校舎である大学寮の北堂(文章院もんじょういん)で送別会を催してくれました。その席上で詠んだ詩です。
 道真は式部少輔しきぶのしょう・文章博士・加賀権守かがごんのかみの三官を自分にふさわしいものと思い、これらと引き換えに地方に赴任しなければならない現状を苦痛に感じていた事は03:184「予外吏と為れども、幸ひに内宴に装束の間に侍し、...」でも書きました。讃岐守転任の背景については、「太政大臣に具体的な職掌はない」と明言したことが光孝こうこう天皇の意に反した、菅家学閥の勢力拡大を恐れた他の学者が画策した、など色々言われていますが、いずれにしろ、文人官僚にふさわしい職を奪われ、弟子達の指導を打ち捨ててまで赴任しなければならない、そのこと自体が、式部少輔就任以来9年間の業績の全否定にほかなりませんでした。そこに中央と地方とを歴然と区別する意識が加わり、暗澹とした心情になったのです。

 仁和にんな 年間に行われた大規模な人事異動が、皇族・準皇族の勢力拡大と学問で立身した人々の後退を示すものであったことは、彌永貞三氏の「仁和二年の内宴」(『続日本古代史論集』下巻、吉川弘文館、1972年)で詳細に論じられています。すなわち、地方官への転出はひとり道真に限った問題ではなく、同時に右中弁うちゅうべんから陸奥守むつのかみ(遥任?)となった安倍清行あべのきよゆき大外記だいげきから筑後介ちくごのすけとなった高丘五常たかおかのかずつねはもとより、一昨年に右中弁・大学頭だいがくのかみ紀伊守きいのかみ(遥任)の三官を停められて越前守えちぜんのかみとなった巨勢文雄こせのふみお (『三代実録』元慶8年3月9日条)などの延長線上に置いて理解する必要があるのです。もっとも官位相当の観点からすれば五常は栄転になりますが、位より官職が低い状況は改善されていません。また清行・文雄の2人は格下げです。それに比べ、式部少輔・文章博士・讃岐守はすべて従五位下相当の官ですから、従五位上の道真にとって決して悪い待遇ではありません。ただ、学識者が勤める職場から外されたこと、都から地方に赴任すること、この2つが重なれば、「自分は学者・応制詩人として都にあるべきだ」という信念の持ち主を歎かせるには充分でした。

 「他人から左遷呼ばわりされるのは嫌だ!」と明瞭に言うのは、韻字がよりによって「遷」だからですが、左遷と認めたくないのは他ならぬ道真自身です。後に島田忠臣も送別会の席で韻字として「遷」を引いているので(『田氏家集』03:177)、この字がくじの中に入っていても不思議ではありませんが、引いた文字を見た瞬間、道真は言葉を失ったのではないでしょうか。そして現実を受け入れようと努力しても受容できず、いたたまれずに孔子廟の前を歩き回る姿を詩に綴ります。「祖業」は紀伝道であって地方官などではない、という一言に、彼の本心が集約されている感があります。

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口語訳

大学寮文章院もんじょういんでの送別会で、
各自に韻字一字を割り当てた〈探韻して「遷」を得た〉

私は南海道の地で風煙に満足しようと思う
(だが)やはり憎らしい 他人に左遷だと言われるであろうことが
よくよく思いをめぐらす 地方官は家業ではないと
さまようのは (大学寮の敷地内に建つ)孔子廟の門前

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