山陰亭

原文解説口語訳

『菅家文草』05:347

哭田詩伯  田詩伯でんしはくこく

哭如考妣苦餐荼  哭すること考妣かうひ ごとくして にがなふよりにが
長断生涯燥湿倶  長く断つ 生涯 燥湿さうしつともにすることを
縦不傷君傷我道  たとひ君をいたまずとも 我が道を傷み
非唯哭死哭遺孤  ただ死を哭するのみにあらず 遺孤ゐこを哭す
万金声価難灰滅  万金の声価は灰滅くわいめつすることかたけれども
三径貧居任草蕪  三径さんけい貧居ひんきよは 草蕪さうぶ まかすらん
自是春風秋月下  これより春風秋月のもと
詩人名在実応無  詩人の名はれども実は無かるべし

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解説

 寛平4(892)年秋、島田忠臣しまだのただおみ(828〜892)が65歳で亡くなりました。詩の師にして妻の父である彼の死を悼み、48歳の道真が詠んだ七言律詩(押韻は上平声七虞韻)です。
 生前、自ら人生を回顧して詩作一辺倒に生きてきたと告白した忠臣ですが(『田氏家集』02:078「自詠」)、その詩才は、文章生もんじょうしょうであった頃、従七位下越前権少掾えちぜんごんのしょうじょうの卑官でありながら渤海使と詩を唱和する役に抜擢され(『三代実録』貞観元年3月13日条)、長年にわたり今は亡き太政大臣藤原基経もとつねの恩顧を受け、地方に赴任していたにも関わらず帰京して渤海使の接待役を務め(『三代実録』元慶7年4月21日条)、後に紀長谷雄きのはせおをして「当代の詩匠」(『本朝文粋』08:201「『延喜以降の詩』序」)と言わしめたほどですが、蔵中スミ氏の年譜(「島田忠臣年譜覚え書」『田氏家集注 巻之上』和泉書院、1991年)によって追うと、五位止まりで地方勤務も多い人生だったようです。
 彼の詩文は『田氏家集でんしかしゅう』全3巻に200首あまりが収められています。元来は全10巻ありましたが、散逸したために後世の人が再編集したものです。その他、他の書籍にもいくつか収録されていますが、さらに数多くの作品を作ったことが、自身の文章から明らかになっています。
 『菅家文草かんかぶんそう』の配列順に従い、没年は寛平3年とされていました(大系本「菅原道真年表」および藤野秀子氏編「菅原道真年表」『菅原道真と太宰府天満宮 下』吉川弘文館、1975年)が、この詩は年代順に配列されていない箇所に含まれ、忠臣自身の作品から判断してもむしろ寛平4年没とすべきだという指摘があり(甲田利雄氏「『菅家文草』巻五の含む問題について──『日本紀略』の誤謬及び島田忠臣の没年に及ぶ──」『高橋隆三先生喜寿記念論集 古記録の研究』続群書類従完成会、1970年および矢野貫一氏「寛平四年忠臣歿す」『論集日本文学・日本語 2中古』角川書店、1977年)、それで問題はありません。

 忠臣の詩を読むと、若い頃から仏教に心を寄せ、本草に親しみ、隠者に憧れる人物の姿が窺えます。とりわけ後半生の作品は平明で恬淡な色彩を帯びます。天皇や高官に命じられて応製・応教詩こそ書くものの、諷諭詩人ではなく閑適詩人に分類すべき作風で、道真に比べ政治色は薄いと言わざるを得ません。
 第6句の「三径」は『蒙求』(蒋〓三逕)にも引かれる、前漢の蒋〓しょうくが自宅に3本の小道を開き、隠者2人のみを通らせた故事(『三輔決録』)に由来する言葉ですが、ここではむしろ、一句全体が、陶潜とうせん(陶淵明)の「帰去来ききょらい」(『文選』巻45)の一節「三逕くわうけども、松菊そんす(庭の3本の小道は荒れ果てているが、松と菊は昔のままだ)」を踏まえているように思います。「帰去来」は陶潜が安月給のために頭を下げることを拒み、官を辞して故郷に帰った時に作った有名な作品ですが、貧を厭わず、栄達を求めず、閑居を楽しむ姿に忠臣を重ねているようなのです。また、「三径」は第3句末の「道」の縁語とも思われ、今後荒れ果てるのは「故人の家」と「詩の道」である、という読み方も可能です。

 この詩の基調を成すのは、自分にとってかけがえのない真の詩人を喪ったことに対する愛惜の念です。家は朽ちても名声は残ります。しかし共に詩を詠みあった季節は、もう二度と訪れません。彼の死を悼まなくても「我が道」である詩文の道が荒廃するのを悼み、「遺孤」を歎きます。この「遺孤」ですが、文字通りに取れば忠臣の子供達を指します。彼には少なくとも息子2人と娘1人がいますから矛盾はしませんが、「君を傷む」と「死を哭す」の対句が同じ意味である以上、「我が道」と「遺孤」の対句も等質だと思うのです。つまり、後に残されたのは、道真自身だったのではないでしょうか。
 最初に「父母の時のように死を歎く」と前置きし、第3句まで自分と忠臣の関わりを踏まえながら綴るだけに、第4句も両者を対比させて「父」忠臣に対する「子」道真という構造になっているのでしょう。舅と娘婿ですから、それこそ姻戚関係を強調しても良さそうなものですが、そうしなかったのは、官職を冠さずに「詩伯(詩の大家)」と呼んだように、忠臣は詩の先輩として尊敬に値する人物である、という意識で一貫しているからです。

 第3句と第4句は「縦不我道/非唯遺孤」と、「傷」「哭」の文字を畳みかけることで、失ったのは人の命だけではないことを強調します。そして題と第1句の「哭」は「死を悲しんで泣く」ことを指すのに対し、第4句の「哭」は「声をあげて歎き泣く」の意味ですので、若干ニュアンスが異なります。このように、同じ文字を、繰り返し、あるいは異なる意味で用いるのは道真の癖でしょうが、別の文字に置き換える場合に比べ、より効果的な表現のように思います。

 第1句の「餐荼」は、道真の若い頃の願文に見える語(『菅家文草』11:637・11:638・11:641・11:642)で、「嘗薬しやうやくながく断ち、餐荼たちまいたる(薬を進めて看病する機会も永遠になく、苦菜を食べるような苦しみがすぐに訪れた)」(11:638)のように、人を喪った苦しみを指します。苦菜の苦さを言うのは『詩経』〓風はいふう・谷風に由来し、この語は謝眺の「始めて尚書省を出づ」(『文選』巻30)にも見えますが、『詩経』は新妻を迎えた夫に対する旧妻の心中、『文選』は暗主の暴虐ぶりを苦菜より苦いと表現しており、故人への想いを述べる文脈で用いたのは、道真だけのようです。

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口語訳

詩の達人島田(忠臣)氏の死を歎く

(あなたの)死を歎くことは両親の(死を歎く)ようで 苦菜を口にするよりも苦い(苦しみを覚える)
生涯 寒暖(の時)を共にすることは(もう)永遠にない
たとえあなた(の死)を悼まなくとも 我が(詩)道(が亡んだこと)を悼み
ただ(あなたの)死を歎くだけではなく 残されたみなし子(である私)を歎く
(あなたの残した)輝かしい名声は滅ばないだろうが
(あなたの暮らした)隠者のわび住まいは草の荒れるがままになるだろう
今後春の風や秋の月(といった四季の自然)のもとには
詩人と称する者はいても真の詩人はいないのだ

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