山陰亭

原文解説口語訳

『菅家文草』01:074

早衙  早衙さうが

廻燈束帯早衙初  ともしびまはして束帯そくたいす 早衙の初め
不倦街頭策蹇驢  まず 街頭に蹇驢けんりよむちうつことを
暁鼓〓〓何処到  暁鼓げうこ 〓〓とうとう いづれのところにか到らん
南為吏部北尚書  南は吏部りぶ 北は尚書しやうしよ

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解説

 貞観18(876)年、民部少輔みんぶのしょう(民部省次官補佐)であった32歳の道真が、出勤を題材に詠んだ七言絶句です。
 夜も明けやらぬうちに起床し、照明の下で服を着替えます。勤務時の服装は法律で規定されており、身につけているもので位が分かるようになっていました。当時道真は貴族の最低ラインとされる従五位下じゅごいげでしたから、薄い色(黄味がかった赤)のほう(上着)と白いはかま(ズボン)を着用し、金銀で飾った腰帯ようたい(ベルト)を締め、頭には黒い頭巾をかぶり、足には白いしとうず(足袋)と黒い革靴を履きます。これが日常勤務にあたって着用する朝服ちょうふくの基本形です。そして象牙のしゃく(威儀を正す際に右手に持つ板)を忘れずに持ち、馬にまたがって大内裏を目指します。
 日の出前に諸門が開き、日の出後に大門が開きます。その際、始めは弱く、徐々に強く、12回太鼓が打たれます。それを二度繰り返せば、門が開きます。諸門が開くのを待って中に入り、式部しきぶ 省(文官の人事を司る役所)の北、太政官だじょうかん(国政の中枢機関)の南にある民部省に向かいます。勤務開始から1時間が経過し、道真は役所の中で、大門を開く時刻を告げる太鼓の音を聞きました。太政官の北に陰陽寮おんみょうりょう(天体観測・暦の製作・占い・水時計による時刻の測定と周知を司る役所)があり、時を告げる太鼓はここで打たれましたから、民部省にもよく響いたことでしょう。
 正午前に再び太鼓が鳴り、大門が閉じられます。これが終業の合図です(『宮衛令義解』開閉門条および『延喜式』陰陽寮)。門を開閉する時刻は季節によって細かく変わりますが、夏至の日は午前4時30分に出勤し9時24分に終業、冬至の日でも6時48分に出勤し11時18分に終業と言いますから、早朝から午前中までの5時間弱が勤務時間でした(松尾かをる氏「古代日本人の時間意識──『続日本紀』恩赦記事に見える「昧爽」──(下)」「福岡大学大学院論集」31-2、1999年12月)。

 もちろん終業時刻に全員が帰宅したわけではなく、日没後に諸門が閉じられるまで(夏至で午後7時27分、冬至は午後5時6分)残業に追われる者もいれば、宿直勤務の者もいました。戸籍や租税の管理など、民政に直結する業務を行う民部省は忙しい役所だったようで、任命当初に島田良臣よしおみ(忠臣の弟)に送った詩の中でも、「民部省の次官は激務だそうですから、詩文を書くのも控えようと思います」と述べたほどです(『菅家文草』01:069「戸部侍郎を拝し、聊か所懐を書き、田外史に呈す」)。
 さらに続けて、「あなたは(大外記だいげきという立場上)公卿会議の席にお出になりますが、もし人事異動があればお伝え下さい」とまで依頼しているのは、多忙な職場に移れば、今までのように高官の依頼に応じて辞表を代作するのも難しくなるから、早めに情報を入手して時間を確保したいと思っての発言でしょうか。

 後にこの時代を回想して、朝から晩まで奔走し、公文書に煩わされる日々だったと述べています(『菅家文草』04:292「日の長きに苦しむ」および『菅家後集』674「家集を献ずる状」)。この詩の直前に収められた「雪中の早衙」(『菅家文草』01:073)も同じ時期の作ですが、それによれば、雪のちらつく中、酒をひっかけ毛皮を羽織って出勤し、役所に着けば、凍える手に息を吐きかけながら書類を書き続けるのが、民部省に勤める少壮官吏の日常だったようです。

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口語訳

朝礼

ともしびの向きを変えて(部屋を明るく照らし)朝服を着る (それが)朝礼の第一歩
嫌だとは思わない 街に駄馬をむち打ち出勤することを
(主要な門を開くよう告げる)夜明けの太鼓の音は どこに響くのだろう
(それは)南は式部省 北は太政官(に挟まれたこの民部省)

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