山陰亭

原文解説口語訳

『菅家文草』06:464

近院山水障子詩(3) 閑適  近院きんゐん山水障子さんすいしやうじの詩(3) 閑適かんてき

曾向簪纓行路難  曾向むかし  簪纓しんえいにして 行路かうろ かた
如今杖策処身安  如今いま 杖策ちやうさくにして 処身しよしん安らかなり
風松颯颯閑無事  風松颯々ふうしようさつさつたり しづかにして事
請見虚舟浪不干  ふ見よ 虚舟きよしうなみをかさざることを

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解説

 昌泰2(899)年、道真55歳の時の作です。この年の2月14日に人事異動があり、藤原時平が左大臣、道真が右大臣となりました。『公卿補任』により台閣の構成を示せば、次の通り。

藤原時平(29)大納言  → 左大臣北家・太政大臣基経の嫡子
菅原道真(55)権大納言 → 右大臣参議是善の嫡子
藤原高藤(62)中納言  → 大納言北家・基経の従兄弟・天皇の外祖父
源光(55)権大納言 → 大納言仁明天皇皇子
藤原国経(72)中納言北家・基経の異母兄
源希(51)参議   → 中納言嵯峨天皇の孫・大納言弘の子
藤原有実(52)参議北家・基経の従兄弟
源直(70)参議嵯峨天皇の孫・左大臣常の子
源貞恒(44)参議宇多上皇の兄
十世王(67)参議宇多上皇の伯父
藤原有穂(62)参議北家
源湛(55)参議嵯峨天皇の孫・左大臣融の子
源昇(41)参議嵯峨天皇の孫・左大臣融の子

 実は源希も藤原有実から源湛までの6人を抜いての中納言抜擢なのですが、批難の鉾先が向けられたのは、やはり道真でした。彼は高官に任じられた際の慣例にならって三度辞表を提出しました(『菅家文草』10:629「右大臣の職を辞するの第一表」〜10:631「重ねて右大臣の職を解かれんことを請ふの第三表」)が、それらに共通して述べられているのは、学者出身の人間が宇多上皇の恩顧により高い地位を占めている現状に、他の貴族が強い不満を持っている事実でした。「右大臣に任ぜられてからというもの、何一つ楽しいことはなかった」という翌年9月の告白(『菅家後集』473「九日後朝、同じく『秋の思ひ』を賦す、制に応ず 」)もそのことを物語っています。

 逃れようのない薄氷の上に座ることを余儀なくされていた道真に、故右大臣源能有みなもとのよしありの邸宅だった近院きんいんに飾る衝立に漢詩を添えてほしいと依頼したのは、長男の源当時まさときあたりでしょうか。
 ちょうど4年前の寛平7(895)年、当時は父親への贈り物として屏風を作りましたが、それは題材を紀長谷雄きのはせおが撰び、藤原敏行としゆきが筆を染め、巨勢金岡こせのかなおかが絵筆を揮う、贅を尽くしたものでした。さらに宿直中の道真の元を訪れ、屏風に書き添える詩を依頼したところ、道真は夜を徹して七言詩5首を作って応えました(『菅家文草』05:386「右金吾源亜将、...」)。このことが思い合わされるのです。

 今回の連作6首には後藤昭雄氏の論文がありますが(「菅原道真の『近院山水障子詩』をめぐって」『平安朝漢文学論考』、初出1977年)、それは詩の内容そのものよりも、困難の多い人生を旅路に例えた「行路難こうろなん」というキーワードが李白・白居易から本朝ではひとり道真に継承された原因として、彼の神経過敏な性格に行き着くことに多く紙数を割いたものでした。ただ、詩を読む際に問題となるのは、むしろ詩人を許容しない時代風潮を背景に、道真が絵画の中の人物に自己を投影しているという指摘です。
 前回の屏風は異郷に暮らす神仙達、今回の衝立は、隠遁生活の舞台となる自然を描いたものでした。同じ山水画でも、中国古典のエピソードに基づく前者に比べ、後者はより自然描写に力点を置いたはずですが、道真は一点景に過ぎない隠遁者の姿に着目します。この老人は早くに俗世間を離れたかも知れない、それなのに「昔はこの人も宮仕えで行き悩んだのだ」と考えます。
 かんざしえいは冠の付属品で、いわば「ネクタイに縛られる」といったところ。しかし今は陋巷ろうこうを去り、杖を手に水面に揺れる「虚舟きょしゅう」を眺めています。「舟行五事(4)」で触れた通り、これは『荘子』に由来するモチーフで、何事にも囚われない広い心は波とてしのぐことはできません。隠者の過去が道真の今、隠者の現在が道真の願いとなっているのです。

 実際にくつを脱ぎ捨てて出奔する、などということは道真にはありえない光景ですが、悪意のこもった視線に痛めつけられるたび、雑音から隔絶した世界に心を遊ばせたいと願うのも、また真実なのでした。

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口語訳

近院きんいんの山と水を描いた衝立ついたてに添えた詩(3) 心安らかに楽しむ

昔は 宮仕みやづかえの身で (人生という)道を進むのは困難だった
今は 隠遁いんとんの身で 穏やかに暮らしている
松風まつかぜはヒューヒューと吹き もの静かで何事もない
ご覧なさい つながれることのない小舟は波でさえ越えないことを

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