山陰亭

原文解説口語訳

『菅家文草』09:606

上太上天皇、       太上天皇だじやうてんわうたてまつり、
請令諸納言等共参外記状  諸納言 なごん等をして共に外記げきに参らせしむることをふの状

右、臣某、謹検      右、しんそれがし、謹んで
去寛平九年七月三日    んぬる寛平九年七月三日の
譲位詔命、曰、      譲位の詔命せうめいけんずるに、いはく、
「大納言藤原朝臣・    「大納言だいなごん藤原朝臣 あそん
 権大納言菅原朝臣、    権大納言ごんだいなごん菅原朝臣、
 可奏可請之事、      そうすべく請ふべき事、
 且誨其趣奏之請之、    しばらくそのおもむきをしへて奏し請ひ、
 可宣可行之政、      のたまふべく行ふべきまつりごと
 無誤其道宣之行之」者。  その道をあやまつこと無くして宣ひ行へ」てへり。
而、諸納言等持疑、    しかるに、諸納言等疑ひを持し、
以為、          以為おもふらくは、
奏請・宣行、       奏請そうせい宣行せんかう
自非両臣、更不可勤。   両臣にあらざるよりは、さらつとむべからざらんと。
臣、再三反覆詔旨云云。  臣、再三さいさん詔旨せうし 云々うんぬんなりと反覆はんぷくせり。
奏請之人、雖称所指、   奏請の人は、指す所をとなふといへども、
尋常之務、無止諸卿。   尋常のつとめは、諸卿しよけいむること無し。

加以、臣、        加以しかのみならず、臣、
業有文書、欲伺閑以伝授、 わざは文書に有れば、ひまうかがもつて伝授せんとほつし、
身非木石、思寄暇而摂治。 身は木石ぼくせきに非ざれば、いとまに寄せて摂治せつち せんと思ふ。
藤原朝臣独自従政、    藤原朝臣独り政に従ふよりは、
何堪毎日頻参之役。    何ぞ毎日頻参ひんさんの役にへん。

伏願、太上皇陛下、    伏してねがはくは、太上皇陛下だじようくわうへいか
述去年詔命之意、     去年の詔命のこころを述べ、
察今日申請之誠、     今日の申請のまことを察し、
宣喩諸納言等、      諸納言等に宣喩せんゆ し、
相共令参外記。      あひ共に外記に参らせしめたまへ。
然則、          しからばすなはち、
庶務繁多、暫無擁滞、   庶務繁多はんた なれども、しばらくも擁滞ようたいすること無く、
群臣激励、倶致恪勤。   群臣激励し、とも恪勤かくきんいたさん。
臣某、誠惶誠恐、     臣某、誠惶誠恐せいくわうせいきやう
頓首頓首、死罪死罪。   頓首とんしゆ頓首、死罪死罪。
謹言。          謹んでまうす。

 昌泰元年九月四日     昌泰元年九月四日
  権大納言正三位      権大納言正三位
  兼行右近衛大将      兼ぎやう右近衛大将うこのえのたいしやう
  民部卿中宮大夫菅原    民部卿みんぶきやう中宮大夫ちゆうぐうだいぶ菅原

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解説

 昌泰元(898)年9月4日、宇多上皇に提出した奏状です。
 1年余り前の寛平9(897)年7月、宇多天皇は31歳の若さで息子敦仁親王に譲位しました。しかしその時の詔において、時平と道真に政務全般を総覧させるよう命じたことに反発した公卿がいました。権大納言源光みなもとのひかる・中納言藤原高藤たかふじ・中納言藤原国経くにつねの3名です。彼らは「天皇への奏上・天皇からの下達は両者でなければできないのだ」と言って外記庁への出仕を拒否し、いくら違うと説明しても埒が開かないので、詔の趣旨について上皇から直接説明して欲しいと求めたのが、この文章です。
 この騒動については「右丞相の献ぜし家集を見る」に書きましたので顛末は割愛しますが、問題となった詔については、若干問題があります。この詔は『日本紀略』(醍醐天皇即位前記)にも一部が引用されていますが、そこには、

伝国詔命にはく、「春宮大夫藤原朝臣・権大夫菅原朝臣、少主長ぜざる間、一日万機のまつりごと奏すべく請ふべき事、宣ふべく行ふべし」云々と。

とあり、単純に文章の省略とは解釈できない異同があるのです。所功氏の復元案(『菅原道真の実像』20頁および91頁)のように、奏状の「菅原朝臣」と「奏すべく請ふべき事」の間に「少主長ぜざる間、一日万機の政」を挿入すると一応は解決するのですが、官職名の食い違いはどう解釈したら良いのでしょうか? 東宮が即位してしまえば東宮職の仕事は自動的になくなりますので、天皇を補佐するという点からすれば、やはりこの奏状のように「大納言」「権大納言」とあるべきでしょう。
 ただ、奏状にも間違いと思われる箇所があります。それは、原文に「大納言藤原朝臣・権大納言菅原朝臣」とあることです。もし時平・道真以外の人間の関与を認めたのであれば、「『両臣(時平と道真)』でなければ勤めてはならない」などと曲解する必要はありません。道真が説明に苦慮することもなかったはずです。そのため衍字と考えて、「等」の字を削除してあります。

 譲位が行われた時点で太政官の序列は時平・光・道真の順であったのを、天皇の補佐役として時平と道真を指名したために、今後は両者の二頭体制で政局を運営すると明言したことになり、それゆえ光の猛反発を招きました。しかも「元服したばかりの天皇が成長して自ら政務を執れるようになるまで」と期間を限定した上で「天皇を教え諭して輔導せよ」というのですから、その権限はより摂政に近いものと思われます。もちろん、9歳で即位した陽成天皇に対し、基経が摂政として「少主の万機に親しまざる間は、政を摂り事を行」う、あるいは「幼主を保輔し、天子の政を摂行」するよう命じられた(『三代実録』貞観18年11月29日条)こととは一線を画しますが、光孝天皇の関白として「入りては朕が躬をたすけ、出でては百官をべ、奏すべきこと下すべきこと、必ず先ずはか」けることになったこととも一致するわけではないようです。宇多天皇は、光孝天皇の時とほぼ同じ言い回しで基経の執政権を認めていますから(05:357「左金吾相公、宣風坊の臨水亭に於て、...」を参照)、あくまでも天皇を補佐する立場に過ぎない関白に準じるのであれば、文言を踏襲するだけで済み、ことさらに期間を限定する必要はないのです。

 公卿が反発した原因が道真の処遇にあったことは言うまでもありません。たまたま抜擢されただけの学者が名家の子弟を差し置いて上位に座していること、この事実が不満の核心でした。道真は他の公卿が出仕しなければ困る理由として、何度説明しても納得してもらえなかったことに加え、「自分は学者だから、政務よりも学生の指導を優先したい」と述べ、逃避する姿勢を見せますが、2週間後には「奏請と宣行の役目については、忠誠を尽くして回避しようとは思いません」と言っており(09:607「重ねて太上天皇に上り、諸納言の疑へる所を決むる状」)、本心は別のところにありました。詔を裏書きするように、時平と道真だけが閣議を主催して天皇にその結果を報告しており、他の納言は議論に加わる立場に過ぎなかったのです(所功氏「『寛平の治』の再検討」「皇学館大学紀要」5、1967年1月、『菅原道真の実像』に再録)。

 道真から窮状を知らされた上皇は、9月18日になって詔の趣旨に他意はないことを諸納言に説明し、執務拒否はようやく解消しました。結局は自分達の参政権についてきちんとした説明を求めての実力行使だったわけですが、道真に対する反感は依然として伏在し、右大臣就任をめぐって再び火を吹くことになります。しかも収拾を天皇ではなく上皇に依頼したことで、上皇に依存しているという印象を周囲に与えてしまう結果となりました。

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口語訳

太上天皇(宇多上皇〕に差し上げ、
幾人もの納言達を共に外記庁に参らせるよう依頼する(奏)状

右(の件について)、臣某、謹んで
去る寛平九年七月三日の
譲位の詔命を調べましたところ、
「大納言藤原朝臣(時平)・
 権大納言菅原朝臣(道真)は、
 奏請そうせい(=奏上して裁可を求めること)すべき事は、
 仮にその趣旨を教えさとして奏請し、
 宣行せんこう(=詔勅を伝えて実行すること)すべき政は、
 道を誤つことなく宣行するように」とありました。
しかし、幾人もの納言達は(詔の内容に)疑いを持ち、
考えることには、
奏請・宣行(の役割)は、
(時平・道真の)両名でなければ、全く担当すべきでないのだろうと。
私は、何度も詔の趣旨は(以下のように)しかじかだと繰り返しました。
(つまり、)奏請の(担当)者は、(詔に)指名された通りですが、
通常の職務(まで)は、他の公卿(の関与)を差し止めてはおりません(、と)。

しかも、私は、
学問を生業としますので、暇を見つけては(弟子の)指導を行いたく、
木や石(のように心なきもの)ならぬ身ですから、(指導の)合間に政務に当たりたいと思っております。
(しかし、もし)藤原朝臣が独り政務に従事する事になれば、
どうして(彼が休みなく)毎日参内する事ができましょうか。

伏してお願いします、太上天皇たじょうてんのう陛下、
昨年の(陛下の)詔の意味を御説明頂き、
今日の(私の)申請の真意を御理解頂き、
幾人もの納言達に教え諭し、
共に外記庁に参らせて下さいませ。
さすれば、
様々な事務は多くても、少しの間も停滞することなく、
数多の臣下は(自らの職務に)勤め励み、共に精勤することでしょう。
臣某、誠惶誠恐、
頓首頓首、死罪死罪。
謹んで申し上げます。

 昌泰元年九月四日
  権大納言正三位
  兼行右近衛大将
  民部卿中宮大夫菅原

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