山陰亭

原文解説口語訳

『菅家後集』 醍醐天皇

見右丞相献家集 御製  右丞相うじようしやうの献ぜし家集を見る 御製

門風自古是儒林  門風 いにしへこれ儒林にして
今日文華皆尽金  今日の文華 皆ことごとこがねなり
唯詠一聯知気味  ただ一聯いつれんを詠ずるのみにして気味を知る
況連三代飽清吟  いはんや三代を連ねて清吟せいぎんに飽かんをや
琢磨寒玉声声麗  琢磨たくま せられし寒玉かんぎよく声声せいせいつらなり
裁制餘霞句句侵  裁制さいせいせられし餘霞よか句句くく侵す
更有菅家勝白様  さら菅家かんか 白様はくやうすぐるること有り
従茲抛却匣塵深  これより抛却はうきやくして匣塵かふちん深からん
〈平生所愛、        〈平生へいせい愛する所、
 『白氏文集』七十巻是也。  『白氏文集はくしぶんしゅう』七十巻これなり。
 今、以菅家不亦開帙。〉   今、菅家を以てまたちつを開かざらん。〉

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解説

 「家集を献ずる状」(『菅家後集』674)にあるように、昌泰3(900)年8月16日、道真は自身の漢詩文集『菅家文草かんかぶんそう』全12巻に祖父清公の『菅家集』全6巻・父是善これよしの『菅相公集かんしょうこうしゅう』全10巻を添えて醍醐天皇に献上しました。それらを読んだ天皇が、道真に下賜したのがこの詩です。『菅家後集』の冒頭に増補として収録されています。

 学者の家系である菅原家の人々は、代々素晴らしい詩文を作ったと賞賛し、黄金・玉・雲になぞらえます。そして白居易はくきょいよりも優れているから、今後は彼の詩文集『白氏文集』を開くこともないだろうとまで言います。この言葉にはもちろん社交辞令も含まれますが、天皇が白居易を引き合いに出し、菅家三代の家集を「詠」じ「吟」じると述べたのは、何とも示唆的です。
 『枕草子』の「香炉峰こうろほうの雪」や「雪月花の時」、『源氏物語』桐壷と「長恨歌」など、中唐詩人白居易(772〜846)の作品は平安朝文学に大きな影響を与えましたが、彼の作品が流行した理由に「分かりやすさ」があります。平明な表現を基調とし、当時の俗語まで取り入れた作品群は、親友元〓げんしん(779〜831)とあわせて「元軽白俗」と北宋の文人蘇軾そしょくに揶揄されたほどですが、中国では広く一般民衆にも好まれ、妓女すら口ずさんだと言います(『白氏文集』巻28「元九に与ふる書」)。彼の存命中から日本にも伝わり、平安貴族に愛好されました。もっとも道真は自分の作品が人の口にのぼるのを嫌っていた節もあるようで(『菅家後集』477「楽天が『北窓の三友』の詩を読む」)、距離を置いて受容していたように思われます。その口ずさむ『白氏文集』よりも口ずさみたくなる家集というのが、天皇が与えた評価でした。これに対し道真は詩の中でひたすら恐縮していますが(『菅家後集』469「『臣の献ぜし家集を見る』の御製に感じ奉り、...」)、祖父以来詩でもって朝廷に仕えてきたという自負を存分に満たすことができたはずです。

 なお、日本語の「霞」は、空中の水蒸気が生み出すもやのことですが、漢語では朝焼けや夕焼け時の赤く染まった雲を指します。このように漢語と和語で異なる意味を持つ言葉として、「相国の東閤の餞席」(『菅家文草』03:186)で取り上げた「一人いちにん」と「一の人」の他、「故人(古くからの友人)」「新月(陰暦三・四日頃の月、もしくは空に出たばかりの月)」「人間じんかん(俗世間)」「百姓ひゃくせい(民衆)」などが挙げられます。白居易も「三五夜中新月の色」と詠っていますが、この「新月」は三五=十五の十五夜の月なんですよね。

 ところで、醍醐天皇は当時16歳の少年でした。道真は56歳。祖父と孫程に年の離れた二人ですが、必ずしも表面的な付き合いに終始する間柄ではありませんでした。両者の交流をしばらく追ってみることにします。

 醍醐天皇(885〜930)は宇多天皇がまだ源定省みなもとのさだみと呼ばれていた頃に生まれ(即位の経緯については05:357「左金吾相公、宣風坊の臨水亭に於て、...」を御覧下さい)、維城これき と名付けられました。3歳の時に父親が即位し、5歳で親王宣下を受け、翌年に敦仁と改名しました。寛平5(893)年に9歳で皇太子に立てられましたが、この時、誰を皇太子にするか宇多天皇が相談したのは、末席の参議に過ぎない道真でした。
 敦仁親王は長男ですから妥当な選択ですが、問題はその時期です。天皇は27歳と若く、急いで皇太子を決める必要はありませんでした。親王の母藤原胤子は基経の従兄弟高藤たかふじの娘で、同じ藤原北家でも傍流に過ぎません。しかし基経の娘温子が皇子を産めば、彼女の兄弟である時平が外戚として実権を握る可能性があります。基経に煮え湯を飲まされた天皇としては、大きなリスクを背負う前に、さして政治手腕のない高藤・定国さだくに親子を皇太子の外戚にした方が、親政を続ける上では有利だったのです。果たしてこの選択で周囲を納得させられるか? 内密に意見を求めた理由は、このあたりにあるのでしょう。

天皇家略系図(3KB)
天皇家略系図

 以来道真は、春宮亮とうぐうのすけあるいは春宮権大夫とうぐうごんのたいぶとして皇太子に近侍する立場にあり、経費節減のために東宮学士とうぐうがくし(皇太子の教育係)の仕事を代行したこともありました。時には皇太子の命令で詩を作りましたが、その中で特筆すべきは、寛平7(895)年の2度の速吟です。
 3月26日、皇太子が「一日に百首を詠んだという唐の故事に倣い、2時間で七言絶句を10首作るように」と題を指定して命じたところ、道真はたった1時間で作り終えました(『菅家文草』05:391「七年暮春二十六日、...(1)送春」)。そして夏になり、改めて20首の題を与えられ、今度は2時間で五言律詩を詠んでいます(05:401)。渤海使相手に即席で詩を詠み(07:555)、大使から「白居易のような詩だ」と誉められた(02:119(2)「余、近ごろ『詩情怨』一篇を叙べ、...(2)」)ことのある道真だけに、無謀な挑戦ではありませんが、1首6分とは、詩人の面目躍如たるものです。

 しかしその頃、宇多天皇は道真に早くも譲位の意を漏らしていました。後半生に顕著に現れる、政務より仏道と風流という指向が既にきざしていたことに他なりませんが、道真は時期尚早だとして反対しました。さすがにこの時は天皇もあきらめましたが、2年後の寛平9(897)年、再び譲位したいと言い出しました。今度は道真も承諾し、密かに準備を進めていたところ、7月に入って譲位の噂が流れ、天皇は譲位を先送りしようとしました。ところが道真は延期はむしろ危険だと判断し、譲位に踏み切らせました。6月8日に右大臣源能有みなもとのよしありが薨去し、時平が台閣の最上位を占めることになり、いずれ譲位するという不安定な状態を継続するより、早く少年皇太子を即位させ、宇多天皇が上皇として援護し、道真が補佐する格好で親政路線を継承させる方が、時平を牽制するには有利と読んでの判断でした。

 7月3日、皇太子は13歳で元服し、そのまま即位しました。宇多天皇は、政務について詳細に書き記して新帝に与えました。これが『寛平御遺誡かんぴょうのごゆいかい』と呼ばれるものですが、道真を政務に明るく反論を厭わない学者だと評し、立太子と譲位に関与したことを明かして重用するよう命じました。
 しかし内々に命ずるのと、公然と命じるのでは話が別です。譲位のみことのりに「大納言時平と権大納言道真が政務を総覧するように」という趣旨の記述があったことから、他の公卿はひどく反発しました。阿衡の紛議の基経に倣ってか、彼らは外記庁への出仕を拒むという行動に出ました。翌昌泰元(898)年9月、詔の内容に公卿達を排除する意図はないことを説明するよう道真は上皇に懇願しています(09:606「太上天皇に上り、諸納言等をして共に外記に参らせしむることを請ふの状」・607「重ねて太上天皇に上り、諸納言の疑へる所を決むる状」)。この1年2ケ月の間、彼らがいつ出仕拒否を始めたのかは明らかではありません。また、「諸納言」(09:606)・「諸納言」(09:607)と、道真の表記も揺れており、納言3名に同調した者がどれほどいたのかもはっきりしません。ただ、『公卿補任』を見ると、この3人が実力行使に出たのも納得できます。
 まず権大納言源ひかる仁明にんみょう天皇(醍醐天皇の曽祖父)の息子です。醍醐天皇が即位した直後の寛平9年7月13日に叙位が行われましたが、従三位から正三位になったのは時平・道真・高藤の3人だけで、上席だった光を道真が飛び越す格好になりました。そしてその中納言高藤は天皇の外祖父でありながらずっと道真の下位にありました。残る一人、中納言藤原国経くにつねは基経の兄です。寛平7(895)年10月26日、道真を従四位下から従三位に4階級特進させて参議から中納言に引き上げるという、異常としか言い様のない人事異動が行われました。道真を抜擢して時平を牽制しようとする宇多天皇の政治構想によるものですが、この時道真が抜いた6人の中にいたのが国経です。さらに、高藤以外の2人は道真がまだ文章博士もんじょうはかせだった元慶年間に参議に任じられており、台閣入りしてから既に10年を越えていました。
 道真の下風に立つということは時平の下位に立つということです。しかし摂関家の嫡男であり、若年ながら政治に熟達した時平に比べ、参議の嫡子とは言え学者に過ぎず、参議になってからわずか4年5ケ月で台閣第2位となった道真に、不満の鉾先が向けられるのは当然でした。
 上皇の説得で出仕拒否は解決しましたが、5ケ月後の昌泰2(899)年2月、さらに彼等を刺激しかねない人事異動が行われます。時平を左大臣に任じると同時に、道真を右大臣に昇進させたのです。この後、彼は何度も辞表を提出していますが、それらの文面には、周囲からの非難の嵐に押しつぶされそうになっている心情が、痛ましくも露出しています。さらに10月、宇多上皇が出家してしまい、道真は後楯を失いました。

 昌泰3(900)年8月、道真は『菅家集』『菅相公集』『菅家文草』を醍醐天皇に奏上し、天皇から賞賛されましたが、思えばこれが絶頂期でした。9月9日に重陽宴、10日に重陽後朝宴と、宮中で詩宴が開かれますが、多分に形式的な重陽の詩(『菅家後集』472)に比べ、翌日作られた「九日後朝、同じく『秋の思ひ』を賦す、制に応ず 」(『菅家後集』473)は随分深刻な内容を含むものでした。
 「大臣就任以来、私は今まで愉しいと思ったことなどありませんが、まして今宵は外の物音だけで物悲しくなります、老い先短い私はどうすれば帝の御恩に応えられるのでしょうか? せめて白居易に倣って酒と琴と詩で気を紛らわせようと思うのです……」
 少数の人間だけが出席した場で苦しい胸の内を明かした道真に対し、天皇は後で自らの衣装を褒美として与えました。一年後の同じ日、大宰府で過去の記憶と共にかき抱いたのは、この御衣です(『菅家後集』482「九月十日」)。

 そして10月、道真のもとに一通の手紙が届きました。差出人は当時文章博士だった三善清行みよしのきよゆきです。これが「菅右相府に奉る書」(『本朝文粋』07:187)です。
 「占いによれば来年2月に革命が起こります、貴殿は学者でありながら大臣にまで登られたのですから、災いに巻き込まれないうちに身を引かれてはいかがですか?」
 文体こそへりくだっているものの、脅迫とも取れる内容でした。しかし道真はこの書状を黙殺しました。辞職しようにもできない状況にまで追い込まれていたからですが、何しろ相手が清行でした。しがない下級官吏の家に生まれ、やっとの思いで学者の地位を手に入れた清行は、2歳年上の紀伝道の申し子に対し、羨望と嫉妬の入り交じった視線を向けていたようです。しかし道真は侮蔑と嫌悪の対象としか思っていませんでした。彼を「詩人」の名に値しない、権力者に追従する「通儒つうじゅ(博識でも論争に明け暮れるだけの学者)」と見なしていたためですが、本当に侮辱する態度を取ったことまでありました。
 昨年の重陽宴において出席者が黄菊を詩に詠んだ時、清行は自分の詩の「〓県てきけん村閭そんりよは皆富貨ふうか /陶家の児子は垂堂せず」という対句に自信を持っていました。しかしそれを見た道真は何も言わず、紀長谷雄の「廉士れんし は路中に疑ひて拾はず/道家は煙裏にあやまちて焼くべし」の対句を誉めるばかりでした。清行は納得がゆかず、退出する道真を追いかけ、意見を求めました。道真はただ「『富貨』を『潤屋じゅんおく』とした方が……」とだけ言い残して立ち去りました(『江談抄』4:111および『本朝文粋』08:201紀長谷雄「『延喜以後の詩』序」)。自負心を打ち砕かれた清行が、どんな思いでその場に立ち尽くしていたかは想像に難くありません。
 そもそも、20年前に清行が方略試ほうりゃくしを受験した際、道真は一度不合格にしています。その成績判定文は現存していませんが、道真や菅野惟肖すがののこれすえが受験した時のものは『都氏文集としぶんしゅう』に収められています。合格と結論づけてはいるものの、試験官都良香みやこのよしかは問題点を挙げては容赦なく批判しており、不合格の場合は更に痛烈な内容になったことと思います。
 そんな人物から手紙が届いたところで、腹が立ちこそすれ、おとなしく意見に従う余裕など持ち合わせていないのが、道真という人間でした。

 しかし清行は次の行動に出ます。翌月、朝廷に「あらかじめ革命を論ずる議」(『本朝文集』巻31)を提出したのです。「来年2月は革命の時ですから、陛下の周囲に異心の者がいないか御注意下さい」。
 果たして、清行は反道真派の貴族達と共闘していたのでしょうか? 道真左遷後もなかなか昇進できなかったところを見ると、利害が一致したところをうまく利用されただけだったかも知れません。しかし清行がいてもいなくても、役者と舞台は充分過ぎるまでに揃っています。
 娘を宇多法皇・斉世ときよ 親王(醍醐天皇の弟、橘広相の孫)に嫁がせ、もう一人を後宮女官とした道真。
 妹穏子を入内させようとする度に班子女王・宇多法皇親子に阻止されていた時平。
 道真の異常な昇進に前々から不満を募らせていた源光以下の公卿達。
 政治に介入しようとする父法皇に反発する思春期の醍醐天皇。
 あとはただ、囲炉裏に差し出した手の、裾が静かに燃え始めるのを黙って待つばかりでした。

 年が明け、昌泰4(901)年の正月になりました。天命が改まるとされる辛酉かのととりの年は、元旦の日食から始まりましたが、7日には例年通り叙位が行われ、時平・道真は揃って従二位じゅにいを授けられました(『公卿補任』昌泰四年条尻付)。しかしわずか18日後、事態は急展開を見せます。25日、厳戒体制が敷かれる中、「道真を大宰権帥に左遷し、源光を右大臣に任ずる」という宣命せんみょうが清涼殿において出されました。そこには「低い門地から大臣にまでなったのに身の程をわきまえず、廃立を行おうとした」からだと記されていますが、「娘婿の斉世親王を天皇に立てて実権を握ろうとした」という意味だろうと理解されています。27日には関係者の処分が発表され、道真の息子も地方に左遷されました。
 宇多法皇はこの頃になってようやく政変を知り、慌てて宮中に駆け付けますが、蔵人頭くろうどのとう藤原菅根すがね らに阻止され、天皇への直談判は叶いませんでした。そして2月1日、革命の時とされた月に入り、道真は都を後にしています。
 天皇廃立の罪状について、所功氏は関係史料を検討した末に冤罪との結論を導き出していますが(「菅原道真の配流」『菅原道真と太宰府天満宮 上』吉川弘文館、1975年、『菅原道真の実像』に再録)、外記庁出仕拒否の顛末を振り返れば、道真が政権を独占したところで、政局運営は困難をきたすに違いありません。法皇に説得を依頼した時、「政務より弟子の指導に当たりたい」と、無責任と批判されかねない発言をしているのですが、周囲の協力が期待できない状況で実権を握るには、公卿全員を更迭する程の辣腕が必要ですから、理論家肌の道真にはそこまでやってのける力量も利点もないだろう、というのが正直なところです。

 醍醐天皇が宣命に署名・捺印した事について、是非を問うのは酷な話でしょう。年齢の離れた道真に比べ、時平は30歳と若いながらも政務に熟達し、果断で明るい性格の持ち主でしたから、数え年17歳の天皇とは相性が良かったことと思います。加えて道真の背後には父親がいます。時平、あるいは他の公卿が疑惑を持ち出したところで、不審を抱いて父親に相談するとは考えられません。
 そして何より道真にとって不幸だったのは、政界にも学界にも、法皇以外に異議を唱える人物がいなかった事です。「官吏の半数は菅原家に学んだ」という清行の言葉(『本朝文粋』07:188「左丞相(時平)に奉る書」)には誇張も含まれるのでしょうが、道真が一大学閥を率いていたことは事実です。にも関わらず、巻き添えを恐れるばかりで、阿衡の紛議の道真のように、敢然と立ち向かう者は誰一人としていませんでした。学問はあくまで立身出世の道具であって、命と引き換えにするだけの価値はなかったということです。

 醍醐天皇の立太子から昌泰四年の変に及び、随分話が長くなってしまいました。愛息保明やすあきら親王の急逝をきっかけに、天皇が道真の名誉回復に乗り出すのは4半世紀近く後のことですが、その詔の「私が幼い頃から近侍してくれたそなたを、どうして忘れようか?」という天皇の言葉(『政事要略』巻22、作者は清行の子三善文江)を引いて、ひとまず筆を置きます。

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口語訳

右大臣(菅原道真)が献上した家集を見る 天皇御自身の作

(菅原家の)家風は 昔から儒学(の家柄)であり
(さらに)今日(献上されたこ)の素晴らしい詩文は みなすべて黄金(に値するもの)である
ただ対句を詠じただけで(その)情趣を理解する
まして三世代(の詩文)を続けて清々しく詠って満ち足りようか(いくら口ずさんでも飽き足りることはない)
削り磨かれた美しい玉(とも言うべき句)は数多の声が連なり
(美しい錦のように)裁断して仕立てられた一面の赤い雲(に比すべき句)はどの句も(心に)忍び込む
そのうえ菅原家(の作品)は白居易の文体よりも優れている
これからは(白居易の詩文など)投げ捨て(それを収める)小箱(の上に)は厚く塵が積もることだろう
〈(私が)普段愛読するのは、
 『白氏文集』七十巻である。
 (しかし)今、菅家(三代集が手元にある)ゆえに再びひもとくことはないだろう。〉

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