山陰亭

原文解説口語訳

『寛平御遺誡』(抄)

左大将藤原朝臣者、   左大将さだいしやう藤原朝臣は、
功臣之後。       功臣こうしんの後なり。
其年雖少、       の年わかしといへども、
已熟政理。       すで政理せいり に熟す。
先年於女事有所失、   先年女事に失する所れども、
朕、早忘却不置於心。  ちん、早く忘却ばうきやくして心に置かず。
朕、自去春加激励、   朕、んぬる春より激励を加へ、
令勤公事。       公事くじを勤めしむ。
又已為第一之臣。    また已に第一の臣り。
能備顧問而従其輔道。  すなはち顧問にそなへて輔道 ほだうに従へ。
新君慎之。       新君慎しめ。

右大将菅原朝臣、    右大将菅原朝臣は、
是鴻儒也。       鴻儒こうじゆなり。
又深知政事。      また深く政事を知る。
朕、選為博士、     朕、選びて博士とし、
多受諫正。       多く諫正かんせいを受けたり。
仍不次登用、      よつ不次ふじに登用し、
以答其功。       もつの功に答ふ。

加以、         加以しかのみならず
朕前年立東宮之日、   朕前の年に東宮を立てし日、
只与菅原朝臣一人    ただ菅原朝臣一人と
論定此事。       の事を論定ろんていせり。
〈女知尚侍居之〉    〈女知尚侍居れり〉
其時、         の時、
無共相議者一人。    共にあひ議するひと一人もかりき。

又東宮初立之後、    また東宮初めて立ちし後、
未経二年、       二年をずして、
朕有譲位之意。     朕に譲位のこころ有り。
朕、以此意、      朕、の意をもつて、
密々語菅原朝臣。    密々に菅原朝臣に語れり。
而菅原朝臣申云、    しかるに菅原朝臣申してはく、
「如是大事、      「くのごとき大事には、
 自有天時。       おのづから天時有り。
 不可忽、        たちまちにすべからず、
 不可早」云々。     早くすべからず」云々うんぬんと。
仍、          よつて、
或上封事、或吐直言、  あるいは封事ほうじ たてまつり、或いは直言を吐き、
不順朕言。       朕が言にしたがはず。
又又正論也。      又々正論なり。

至于今年、       今年に至り、
告菅原朝臣       菅原朝臣に告ぐるに
以朕志必可果之状。   朕が志必ず果たすべきかたちを以てせり。
菅原朝臣、更無所申、  菅原朝臣、さらに申す所無く、
事々奉行。       事々じじ奉行ほうかうせり。
至于七月、       七月に至り、
可行之儀、人口云々、  行うべきの儀、人口じんこうに云々し、
殆至於欲延引其事。   ほとんどの事を延引えんいんせんとほつするに至れり。
菅原朝臣申云、     菅原朝臣申してはく、
「大事不再挙。     「大事は再挙さいきよせざれ。
 事留則変生」云々。   事留むればすなはち変生ず」云々と。
遂令朕意如石不転。   つひに朕がこころをして石のごとく転ぜざらしむ。

惣而言之、       すべて言へば、
菅原朝臣、       菅原朝臣は、
非朕之忠臣、      朕が忠臣にあらず、
新君之功臣乎。     新君が功臣こうしんならんや。
人功不可忘。      人功忘るべからず。
新君慎之。云々。    新君慎しめ。云々。

季長朝臣深熟公事、   季長すゑなが朝臣は深く公事に熟し、
長谷雄博渉経典。    長谷雄はひろ経典けいてんわたれり。
共大器也。       共に大器なり。
莫憚昇進。       昇進をはばかることかれ。
新君慎之。       新君慎しめ。

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解説

 寛平9(897)年7月3日、宇多天皇(31歳)は皇太子敦仁親王(13歳)に譲位しました。その日に元服したばかりの新帝醍醐に対し、宇多上皇が政務について書き記して与えたのが、『寛平御遺誡かんぴょうのごゆいかい』と呼ばれるものです。全文までは残っていませんが、一部が他の書籍に引用・集成される形で残っています。
 「『群書治要ぐんしょちよう』だけは学んでおくように」「怪異があっても軽々しく神祇寮じんぎりょうや陰陽寮に占わせるな」「大納言以下の公卿は12名以下にせよ」「えこひいきせず、感情を表に出すな」「外国人とはすだれ越しに面会せよ」というように、その指示は具体的で事細かなものですが、故太政大臣藤原基経もとつねから聞いた話として、1世紀前に平安京を造営した際、羅城門らじょうもん(南端中央の大門)を視察して五寸(約15cm)低くするよう大工に命じたものの、後で元通りの方が良かったと歎き、高さを変えないまま「低くしました」と嘘をついた大工を咎めなかったという桓武かんむ 天皇の挿話を載せることもあります。

 さて今回取り上げるのは、現在の臣下について個別に述べた箇所です。
 藤原時平・菅原道真・平季長たいらのすえなが・紀長谷雄の4人を取り上げて登用するように命じていますが、一見しただけでも、道真に対してかなりの紙幅を割いていることが良く分かると思います。参考までに、この時の太政官だじょうかんの顔ぶれを示せば、以下の通り。

大納言藤原時平(27)北家・太政大臣基経の嫡子
権大納言源光(53)仁明天皇皇子
菅原道真(53)参議是善の嫡子
中納言藤原高藤(60)北家・基経の従兄弟・天皇の外祖父
藤原国経(70)北家・基経の異母兄
参議藤原有実(50)北家・基経の従兄弟
源直(68)嵯峨天皇の孫・左大臣常の子
源貞恒(42)宇多上皇の兄
藤原有穂(60)北家
源湛(53)嵯峨天皇の孫・左大臣融の子
源希(49)嵯峨天皇の孫・大納言弘の子
源昇(39)嵯峨天皇の孫・左大臣融の子
十世王(65)宇多上皇の伯父

 道真を除く12名は、皆、皇族出身者と藤原北家の人間で占められていますから、道真がいかに特異な存在か明らかです。ところが、彼の上位に位置するはずのひかるについて、上皇は何ら言及していません。2週間前、右大臣源能有みなもとのよしあり薨去に伴って行われた人事異動において、3人を一緒に中納言から昇格させた際にも、左右近衛府このえふの長官を兼任させたのは時平と道真で、両者を中心にして天皇親政を進めさせようと上皇は考えていたのです。このことは譲位のみことのりにおいても、「時平と道真が上奏・下達を行うように」と明言されており、光らの猛反発を招きました(『菅家文草』09:606「太上天皇に上り、諸納言等をして共に外記に参らせしむることを請ふの状」を参照)。

 さて、「道真を讒言して大宰府に追いやった張本人」というレッテルを貼られて久しい時平ですが、実際はどうだったのでしょうか?
 父は関白太政大臣にして母は皇族(宇多上皇の従姉妹)という出自の良さを誇る彼は、27歳にして上皇に「政治に熟練した人物」と評されました。その人となりについて、『大鏡おおかがみ』にこのようなエピソードがあります。

 華美に走る風潮に醍醐天皇が手を焼いていた時、時平が禁制を無視した華美な装束で参内したので、天皇は激怒し、すぐ退出するよう命じた。すると時平は居並ぶ公卿をよそに大慌てで退出し、ひと月ほど家に閉じ籠ったまま謹慎し、誰とも会おうとしなかった。この一件により、派手好みの風潮は止んだが、実は華美を戒めようとして天皇と時平が打った芝居だったそうだ。

 そしてもう一話。これも『大鏡』にみえる話です。

 時平は極度の笑い上戸だった。道真と共に政務を行っていた頃、時平が無理難題を言い出したので、道真は困惑した。その様子を見た書記官が「私が何とかいたしますから、まあ御覧下さい」と助け船を出した。会議が始まり、時平が議論をしていると、書記官が文挟ふみばさみに公文書を挟み、大袈裟な格好で差し出した。そして高らかに放屁したので、時平は文書も取らず大爆笑した。捧腹絶倒する時平をよそに、道真はうまく政務を進めることができたという。

 おなら一つで仕事が手につかなかったと言いますから、すこぶる闊達な人物であったことが窺える話ですが、『大鏡』は、時平を「やまとだましひなどは、いみじくおはしたる」人物だと評価しています。この「やまとだましひ」なる言葉、私達がイメージする「大和魂」ではなく、「漢才からざえ(漢詩文の教養)」に対する、日本人としての知恵や果断な行動力を指すものです。両者のバランス感覚が大切で、『源氏物語』において光源氏が周囲の反対をよそに息子夕霧を大学に入れたのも、「いくら血筋が良くても、『やまとだましひ』だけではだめだ」という、実体験に即した認識あってのことでした。
 『大鏡』の作者は「漢才が過ぎると身を滅ぼす」と考えていたようで、花山 かざん法皇を襲撃したことなどに端を発する長徳2(996)年の藤原伊周これちか(中宮定子の兄)左遷も道真を引き合いに出して理解していますが、時平について「(漢)ざえもことのほかに劣りたまへる」とも言っているのは、的を得た指摘ではありません。父基経が好学の士であったことを忘れてはなりませんし、彼自身も紀伝道の学者である大蔵善行おおくらのよしゆきに学び、漢詩を道真に詠んで贈ったこともあるからです。道真あての詩は現存していませんが、延喜元(901)年秋に善行の古稀を祝った時に詠んだ七言絶句2首が『雑言奉和ざつげんほうわ』に収められています。そして史書『日本三代実録』・勅撰和歌集『古今和歌集』・法令集『延喜格えんぎきゃく』と、編纂事業にも名を連ねており、少なからず教養を身に付けていたことは疑うべくもありません。

 ただ、明朗な若き御曹子ともなれば女性が放っておくはずがありません。廉子女王や妹温子の女房にして同母弟仲平なかひらの恋人だった女流歌人伊勢とつき合っていたこともありますし(結局彼女は主人の夫である宇多天皇と結ばれるのですが)、伯父国経くにつねの妻だった在原棟梁ありわらのむねやなの娘(業平なりひらの孫)を奪い取ったこともあります。時平は和歌も巧みで、華やかな女性遍歴の持ち主でもあったようです。宇多上皇が触れたスキャンダルの相手が誰だったかは明らかではありませんが、この件に関して、上皇は「素知らぬ顔をして政務に勤めるよう励ました」と言っており、後宮の女官だった源昇みなもとののぼるの娘ではないかという見方もあります。
 もっとも、筆頭公卿の醜聞をこう堂々と書いてしまっても良いものか、そういう戸惑いは確かにあります。

 そして道真については、政治にも精通した大学者ゆえに顧問とし、繰り返し諫言を受けてきたと言います。道真を重用したのは、上皇の文事好みの性格に合致した側面もありますが、即位直後に煮え湯を飲まされた阿衡 あこう紛議ふんぎ (『菅家文草』05:357「左金吾相公、宣風坊の臨水亭に於て、...」を参照)において、基経を批判した唯一の人物だったことが大きく影響しています。道真は昔から直言居士なところがありますが、宇多朝においても、遣唐使派遣事業の中止を言い出したり、いったん譲歩したはずの検税使けんぜいし(地方行政の査察官)派遣について再審議を申し立てたりと、言うべきことは言うという態度を崩しませんでした。

 他の貴族を差し置き、宮中の序列を無視してまで高位高官に押し上げたことが、道真の失脚を招きますが、上皇が当初から過度の信頼を道真に寄せていた事を明瞭に示すのが、その後に続く立太子と譲位をめぐる挿話です。
 4年前の寛平5(893)年4月、上皇は内密に道真を呼びました。その場に居合わせたのは女知(ここは良く読めない箇所なのですが、「如無」という随僧とする説もあります)と尚侍ないしのかみ藤原淑子の2人。淑子は基経の妹にして上皇の養母で、宇多即位を実現させた後宮きっての実力者です。しかし上皇が皇太子選定について意見を求めたのは、あくまでも道真ひとりでした。先に挙げた寛平9年7月の状況と比較する意味も込めて、この時の台閣の顔ぶれを示しておきましょう。

左大臣源融(72)寛平7年8月薨去
右大臣藤原良世(72)寛平8年12月引退
大納言源能有(49)寛平7年6月薨去
中納言源光(49)寛平9年7月現在、権大納言
藤原諸葛(68)寛平7年1月引退
藤原時平(23)寛平9年7月現在、大納言
参議源直(64)寛平9年7月現在、参議
藤原有実(47)寛平9年7月現在、参議
藤原国経(66)寛平9年7月現在、中納言
藤原保則(69)寛平7年4月没
藤原有穂(56)寛平9年7月現在、参議
源湛(49)寛平9年7月現在、参議
菅原道真(49)寛平9年7月現在、権大納言

 参議7名の内、有穂・湛・道真の3人は、2月16日に任命されたばかりであり、道真は末席の公卿に過ぎませんでした。にもかかわらず、この4年間で道真は源直以下の5人を抜いて台閣第3位にまで昇進することになります。それどころか、譲位に際し道真を重用させようとしたことについて批判の声があったことは、光らが出仕を拒否する前から道真も重々承知していたことでした(『菅家後集』貞享板本増補分・675「重ねて右近衛大将を罷めんことを請ふの状」)。

 道真との合議の結果、敦仁親王を皇太子とした宇多天皇ですが、それからわずか2年弱で譲位を考えました。その意を内密に漏らした相手は、やはり道真でした。わずらわしい政務から離れて仏道と風流の世界に遊びたい、そんなことを思う天皇に対し、道真は「譲位などという一大事には時機がある以上、思いつきでするものではありません!」と、即座に反対しました。書面、あるいは面と向かって反論を繰り返す道真を前に、天皇は譲位を取り下げるほかありませんでした。

 ところが、それから2年も経たないうちに、天皇は再び譲位の意を漏らしました。道真の言う「天時」に叶った時期だったのか、あるいは天皇に押し切られたのか、道真は内密に準備を進めます。しかし秋7月、計画が漏れ、譲位が噂されるようになると、天皇はうろたえ、譲位を延期しようとしました。それを聞いた道真は、「中止する方が危険です」と、譲位を決行するよう進言しました。つまり、譲位のタイミングを決めたのは、道真だったのです。

 次に取り上げる平季長すえながは故大納言高棟たかむね(桓武天皇の孫)の息子です。彼に対し、道真は讃岐守だった時に詩を贈り(『菅家文草』03:240・04:331)、阿衡の紛議に際し連名で意見書を提出したりしています(『政事要略』30「昭宣公に奉ずる書」を参照)が、「白菊の花に感じ、尚書平右丞に奉呈す」(『菅家文草』04:331)を読むと、主人不在のままの私塾の復興を季長に要請しているようなので、私塾関係者の一人だったのかも知れません。いずれにしろ、道真が「宮中要須の人」(『菅家文草』09:602「議者をして検税使の可否を反覆せられんことを請ふの状」)と評したごとく、多忙な弁官べんかんの職を長く務める実務家で、公務に精通していることは宇多天皇も認めるところでした。
 なお、付言すると、彼の兄弟である正範まさのりとも道真は交友があったようで、別荘に招かれて詩を作り(『菅家文草』02:092(1)〜092(4))、(韻文の一種)を賭けて囲碁を打ち(02:141)、太政大臣藤原基経に贈った屏風に詩を詠み添える(02:174〜178)などしています。

 そしてもう一人、紀長谷雄については、儒教のテキストに精通した人物と言います。彼は式部大輔しきぶのたいふ文章博士もんじょうはかせ・侍従を兼任しており、紀伝道の専門家で天皇の側近という立場にありました。彼は道真から遺稿を託された程の親友として知られていますが、両者の交友関係については「『延喜以降の詩』序」(『本朝文粋』08:201)という非常に興味深い自伝風序文に詳しく述べられていますので、ここでは触れず、追って御紹介したいと思います。

 季長と長谷雄を「大器」と評していますが、この言葉は、もう一度別の箇所で出てきます。
 それは、「外戚に大器の事を寄すべき無きをなげく」という一節です(目崎徳衛氏「『寛平御遺誡』の逸文一条」「日本歴史」441、1985年2月)。新帝の外祖父たる藤原高藤たかふじ、伯父の定国さだくに定方さだかた兄弟は、時平の牽制役としても、単なる政治家としても、とても期待できないという上皇の本音を如実に示しているようです。

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口語訳

左近衛大将さこのえのたいしょう藤原朝臣(時平)は、
功績ある臣下の子孫である。
年齢は若いが、
すでに政治に熟達している。
昨年には女性問題で失敗を犯したが、
私は、早くに忘れ去って気に留めなかった。
(そして)今年の春から激励して、
公務に当たらせた。
またすでに第一の臣下である。
そこで顧問として補導に従いなさい。
新帝よ、心しなさい。

右近衛大将うこのえのたいしょう菅原朝臣(道真)は、
大学者である。
また深く政治について知っている。
私は、選び出して博士とし、
数多く諫言かんげんを受けた。
そこで序列によらず登用し、
その功績に応えた。

それだけでなく、
私が過去に皇太子を立てた時、
ただ菅原朝臣一人と
立太子について議論し決定した。
〈(その場には)女知と尚侍ないしのかみ(藤原淑子)が居合わせた〉
その時、
一緒に話し合った者は(菅原朝臣以外に)誰もいなかった。

また皇太子を立ててから、
二年も経たずに、
私は譲位しようと考えた。
私は、その意を、
内密に菅原朝臣に語った。
しかし菅原朝臣は、
「このような一大事には、
 おのずと天のもたらす時機というものがございます。
 突然なさってはなりません、
 急いではなりません」等々と答えた。
そこで、
時には密書を提出し、時には直接諫言かんげんし(て譲位に反対し)、
私の意見に従わなかった。
(それも)また正論である。

今年になり、
菅原朝臣に
必ず(譲位しようとする)決意を果たすと告げた。
菅原朝臣は、再度反論せず、
(譲位に向け)自分がすべきことを行った。
(しかし)七月になり、
人々の間に(譲位の)儀式が行われるだろうという噂が流れ、
(私は)譲位を延期しようと思うに至った。
(しかし)菅原朝臣は、
「一大事は二度なさってはなりません。
 中止すればたちまち突発的な出来事が起こります」等々と答えた。
(そして)とうとう私に不退転の決意をさせた。

総じて言えば、
菅原朝臣は、
私の忠実な臣下ではなく、
新帝の功ある臣下(と言うべき)ではないだろうか。
彼の功績を忘れてはならぬ。
新帝よ、心しなさい。等々。

(平)季長すえなが朝臣は深く公務に熟達し、
(紀)長谷雄は儒学の書籍に精通している。
(彼等は)共に優れた才能の持ち主である。
昇進をはばかってはならぬ。
新帝よ、心しなさい。

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