山陰亭

岩津天満宮(6KB)
岩津天満宮

所在地:愛知県岡崎市岩津町
 交通:名鉄バス・岩津天神口バス停下車

アスレチック系天神社信光明寺で素朴な疑問

アスレチック系天神社

(傾向)何も知らずに行くとヘコむ恐れあり。
(対策)場数を踏む。

 名鉄の東岡崎駅もしくはJR東海の岡崎駅からバスに乗ります。本数は多いようです。名古屋から東名ハイウェイバスに1時間乗り、東名岩津で降りて歩く方法もありますが、道が分かりにくい上に15分ほどかかりますので、あまり利点はありませんでした。
 バス停のすぐ南の十字路を東に入ると、坂道になります。そう、ここは先の見えない山道なんですが、天拝山与喜天満宮・菅山寺と何度も山登りをしてきた人間にすれば、敵ではありません。バス停から5分で大鳥居の下に到着。途中二股路がありますが、左の道を選びます。大鳥居から5分で入口の前に着きます。しかしその前の道は高速道路の上に掛かる橋。両端の金網付近に近付くと、遥か下には自動車が小さく見えます。高速からすぐ上がる道はないかと周囲を見回す筆者。その横で顔をしかめる高所恐怖症。渡り終えたら鳥居に迎えられますが、その先は石段です。入口まで住宅に挟まれた太い道が続くだけに遭難の心配はありませんが、辿り着くまで試練山積みのアスレチック状態だということは気に留めておいた方が良いでしょう。一人で行くと空しくなるかもしれません。

 公式サイトの運営に積極的で、境内のオブジェも多いだけに、前々からチェックを入れていました。駅から遠いのを承知で行ったのには、そんな事情がありました。18世紀後半、芭蕉の葉に乗った天神が雷と共に山頂に降下し、荏柄天神社を勧請したという神社です。山頂への落雷が起源とは、それなりに理解できるものがあります。
 緑に囲まれて石段を上ると、右脇に手水、左脇に地蔵の祠と小さな観音堂。この地蔵菩薩像、「おもかる地蔵」と呼ばれ、前に膝をついて座り、願を掛けてから地蔵を持ち上げ、成功すれば成就するというもの。小さな石製の仏像ですが、重いです。願いが叶う時は軽く、叶わない時は重く感じると言いますが、実現する可能性の高い事柄を願掛けし、渾身の力を込めて持ち上げた知人の知性と体力に乾杯。

 再び石段を上るとようやく境内中心部。最初に目に着いたのが参道左側の鷽鳥を乗せた石碑。ずんぐりむっくりの鷽が可愛いのですが、サイズは大きいです。両脇に立つ石灯籠には小さな達磨が並んでいます。これは願掛けに用いた達磨を奉納したもの。臥牛の背後の箱に小さな臥牛が大量に納められているのも同様の事情によります。

鷽鳥の石碑(左)と石灯籠(右)(7KB)
鷽鳥の石碑(左)と石灯籠(右)

 臥牛は2頭。社殿前の鼻鉢巻君(黒)と社務所近くの背骨ゴツゴツ君(白)の組み合わせ。ゴツゴツ君は新顔です。絵馬も、鼻鉢巻君・大津絵風の束帯姿の天神人形と梅松・紅梅の下に座る童子(おそらく五才菅公像)・紅白梅(合格御礼用)と、豊富なバリエーション。どれを選ぶか悩みます。

鼻鉢巻君(左)とゴツゴツ君(右)(8KB)
鼻鉢巻君(左)とゴツゴツ君(右)

 そして他の神社と根本的に違う点が一つ。それは境内にBGMが流れているということ。一歩間違えると引いてしまうところですが、意識させない低音量なので、なかなか悪くないですよ。

 バス停に戻ると間もなく駅行きのバスがやって来ました。早速乗り込んで休息モードに入ると、別の天神社が車窓から見えました。内心「降りますーッ!」と叫ぶ人間を乗せ、素知らぬ顔でバスは走り続けます。……小さな神社でしたけどね。

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信光明寺で素朴な疑問

(傾向)創建縁起が寺と社で食い違う。
(対策)説明をラディカルに聞くのも大切。

 大鳥居の前の二股路に、看板が立っていました。何でも、右に行けば信光明寺という浄土宗寺院に着くそうです。そして看板の真ん中には「芭蕉天神」の文字。気になったので後で立ち寄ることにして、とりあえず左へ。天満宮への登攀を終え、元の道を戻る途中、道端に近道の表示が出ていたのに従って足を踏み入れた先は、いたってワイルドな薮道。本当にここは道なのか不安がよぎります。雑木林に迷い込んでは話になりません。それでも抜けた先は境内でした。お目当ての芭蕉天神は創建間もない頃に建てられた観音堂に安置されているようですが、中までは確認できず。

信光明寺観音堂(5KB)
信光明寺観音堂

 15世紀半ば、父と祖父の供養のために松平光信が創建し、寺名も彼の名前に由来します。それから300年余り後の18世紀半ば、江戸に向かう途中、駿河で病気になった住職一誉上人が宿の主人の勧めで近辺の芭蕉の地にある天神社に詣でたところ、平癒したので、帰郷後天神像と十一面観音像を作り、寺に安置しました。すると天神が夢枕に立ち、山の上に祀るよう告げたので、山上に社殿を設けたと言います。それが明治の神仏分離令で信光明寺に戻されることとなりました。
 境内の説明版には以上のような内容が記されているのですが、改めて説明を読み直すと、分からない点が出てきました。「神像と本地仏の2体を作ったのなら、神仏分離で寺に戻すべきは仏像であって『芭蕉天神』まで戻す理由はないのでは?」「天神像が山上に移された時期が天満宮の創建時期と一致する以上、どうやら同一社のようだが、天満宮では芭蕉の葉や落雷など別の説明をするのはなぜか?」
 電話を掛けて突っ込んで聞くほどの度胸は持ち合わせていないので、疑問提示に留めておきますが、両者の関係が今一つ良く分からないことは事実です。確かに天満宮には小さな観音堂がありましたが、神仏習合の感覚からすれば、それこそ荏柄天神のように一緒に祀っても良さそうなものですから、明治以前の状態は今と随分違っていたようにも思われます。古い境内図でも見れば、少しはすっきりするのでしょうが。

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