山陰亭

 「老松おいまつ」「輪蔵」(共に北野天満宮を参照)「藍染川あいそめがわ」(湯島天満宮を参照)「道明寺」と、折に触れ能楽作品を取り上げてきましたが、そこに収まらないのが「菅丞相かんしょうじょう」と「雷電らいでん」。神徳を讃える他の作品とは毛色が違うのです。
 道真の霊が天台座主尊意そんい の前に現れ、参内しないよう求めたものの、拒絶されて激怒し、柘榴ざくろ を口に含んで炎に変えて吐き出したが、印を結んだ尊意に炎を消され、やむなく姿を消したという「柘榴天神」の話に取材した作品です。「菅原伝授手習鑑天拝山で菅丞相が飛梅の花弁を食べて火を吐くのも、この話がベースになっています。道明寺の幕切れ、顔を隠すために右袖を巻き上げる「天神の見得」も、両袖を巻く「雷電」後シテを継承しているように思います。

 「菅丞相」のダイジェスト版が「雷電」で、前半が柘榴天神、後半で尊意が参内するという構図そのものは同じです。ただクライマックスは随分異なっており、尊意の説得に応じて攻撃を止めた「菅丞相」に対し、「雷電」では尊意から逃げ回った挙句に降参します。あまりのあっけなさに、つい「え? それだけ?」と思ってしまいました。
 「菅丞相」の存在は随分前から知っていたものの、廃絶曲ゆえにさして気に留めていませんでした。しかし詞章は残っていたようで、最近復活上演されました。そこであらすじを紹介しておきます。作者は世阿弥。

 筑紫に流された菅丞相の怨念が原因で帝は病に臥せっていた。そこで延暦寺座主法性坊が比叡山で祈祷を行っていると、怪し気な人物が現われた。それは菅丞相であった。法性坊はその姿を見ていかぶる。「髪も鬚も眉も真っ白なのはなにゆえか」と。「速やかに筑紫へ追われ、護送役が帰京するという時になって、あまりの名残り惜しさに一晩で白髪頭になってしまった」と丞相は答えた。法性坊は話を続けるよう促す。「何の罪もないのに遠流の身となり、筑紫の地で都を思い出しながら日々を送るばかりであった。この世は厭わしく、また恨めしい。しかしこれは前世で犯した罪の報いによるものだから、怨む気持ちはさらさらない」。
 ひとしきり話を終えた後、丞相は切り出した。「我が誠意が天に通じて帝が病に苦しんでいるのだから、勅使が来ても決して参内しないで欲しい」。法性坊は「一度二度なら」と快諾したが、さすがに三度目ともなると難色を示した。その態度に丞相は激怒し、参内した曉には実力行使に及ぶと宣言する。前にあった柘榴をつかんで口に含み、噛み砕き、妻戸に吐きかけると、柘榴は炎に変じた。燃えさかる炎にまぎれ、丞相は姿を消した。
 帝は回復する様子もなく、何度も勅使が立った。法性坊は山を降りて牛車で宮中を目指したが、一天にわかにかき曇り、荒れ狂う川は渡りようがない。簾を上げてよく見れば、川波と見えたのは丞相の手下達。激しく水を巻き上げ、大音響を立てて行く手を阻む。紅に染まった白川に立ちふさがる魔物達の間から、菅丞相らしき人物が姿を見せた。鬼神のように怒り狂った表情で周囲を威圧するが、法性坊は臆せず車を川へ突っ込ませる。しかし火雷神によって東岸に追い返されてしまう。
 丞相に向かい、法性坊は「師が宣旨によって参内するのだから、お退きなさい!」と道理を説いた。納得した丞相は、ながえ(牛車と牛を結ぶ長い棒)に手を掛け、白川、賀茂川と、濡らすことなく渡り、内裏の東門へと車を着けてから立ち去った。かくして帝の病は治り、天下も平穏を取り戻した。また菅丞相は、今に至るまで天満天神として示現するのである。

 もともと、比叡山で天神が法性坊こと尊意の前から消えたのは、「雷電」に描かれたように、吐いた炎を法力で消されてしまったからなのですが、「菅丞相」にはその記述はありません。尊意が川を渡るくだりも同様。洪水の賀茂川に牛車を突っ込ませると、川面が真っ二つに割れたと天神縁起にはあります。天神信仰は成立段階から天台宗が関与しているため、天神縁起は仏法が天神の霊威に勝るという内容になっているのです。それを脱落させて師弟の論理でまとめたのは、天神の地位向上を図ったと考えて良さそうです。直接手を下さず、手下を通じて法性坊を阻止させたのもそのためでしょうか。
 小田幸子氏が論文「天神の能」(「芸能史研究」73、1981年4月)で詳しく検討されたところによれば、これらの変更は安楽寺本系天神縁起にもない「菅丞相」独自のものだそうで、作者の意図が強く入っていると考えて良さそうです。

 ただよく分からないのが、流罪の原因を時平の讒言に求め、彼等に復讐すべく雷神となったのに、怒りの鉾先が天皇に向けられている点。天神縁起では「讒言を信じて忠臣を流したために地獄に落ちた」と天皇自身に語らせているので理解しやすいのですが、天皇に責任がなければ病気で苦しむのは筋違いな気がします。

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