山陰亭

原文解説口語訳

『菅家文草』02:087

博士難〈古調〉

吾家非左将  が家は左将さしやうにあらず
儒学代帰耕  儒学 帰耕きかう に代ふ
皇考位三品  皇考くわうかう 位は三品さんぽん
慈父職公卿  慈父じふ 職は公卿くぎやう
已知稽古力  すでに知る 稽古の力
当施子孫栄  ほどこすべし 子孫の栄え
我挙秀才日  我 秀才にげられし日
箕裘欲勤成  箕裘ききう  勤めてさんとほつ
我為博士歳  我 博士とりしとし
堂構幸経営  堂構だうこう 幸ひに経営せり
万人皆競賀  万人 皆競ひ賀せども
慈父独相驚  慈父 独りあひ驚く
相驚何以故  相驚くこと 何を以てのゆゑ
曰悲汝孤〓  いはく「なんぢ孤〓こけい なるを悲しぶ
博士官非賤  博士の官は賤しきにあら
博士禄非軽  博士の禄は軽きに非ず
吾先経此職  れ先にの職を経て
慎之畏人情  慎みて人のこころを畏る」と
始自聞慈誨  始めて慈誨じくわいを聞きしより
履氷不安行  氷をみて安行せず
四年有朝議  四年 朝議てうぎ
令我授諸生  我をして諸生に授けしむ
南面纔三日  南面することわづかに三日
耳聞誹謗声  耳に誹謗の声を聞く
今年修挙牒  今年 挙牒きよてふを修す
取捨甚分明  取捨 はなはだ分明なり
無才先捨者  才無くして先に捨てられたるひと
讒口訴虚名  讒口ざんこう 虚名を訴ふ
教授我無失  教授 我 失ふところなし
選挙我有平  選挙 我 たひらかなること有り
誠哉慈父令  まことなるかな 慈父のおし
誡我於未萌  我をきざさざるにいましめたまふ

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解説

 元慶6(882)年38歳の時、文章博士もんじょうはかせの官にあった道真がその苦衷を述べたもので、道真が初めて作った古調詩です。

 道真について語る際、「先祖代々の学者」という言葉が良く用いられますが、菅原氏の起源はさほど古くありません。その歴史は、1世紀前の天応元(781)年6月、土師古人はじのふるひとら一族15名が、4月に即位したばかりの桓武かんむ 天皇に次のような申請を行ったことに始まります(『続日本紀』巻三十六・天応元年六月壬子条)。

土師一族は天穂日命あまのほひのみことを祖とし、その14代後が野見宿禰のみのすくね です。彼は垂仁すいにん天皇の時、仁政に背く行為として殉死の制をやめるよう進言し、工人に様々な人や物を作らせて殉死者に代えました。これが埴輪はにわ です。以来、我々は吉凶を問わず天皇家の葬祭を司ってきましたが、近年はもっぱら凶事に携わるのみです。これは祖業にかなうものではありません。居住地の地名を取って、どうか「菅原」と姓を改めさせて下さい。

 ちょうどこの頃、奈良末期から平安初期にかけて、さまざまな氏族が改姓の許可を申請しているのですが、改姓には業種変更に氏の名を対応させるという意味がありました。もともと土師氏は古墳築造や土器製作に従事する技術者を束ねる立場にありました。しかし仏教を導入したことで土葬が衰退し、律令制が確立する中、外交や学問の世界に活路を見い出します。古人も学問を志した一人ですが、辛うじて従五位下に登り、遠江介とおとうみのすけに終わったに過ぎませんでした。ただ、彼は当の桓武天皇の侍読 じとう(進講担当者)を勤めた人物であり、没後、遺族の困窮ぶりを見かねた天皇が、遺児に奨学金を支給したという一幕もありました(『続日本紀』延暦4年12月甲申条)。
 桓武天皇の母高野新笠たかののにいがさは渡来系氏族であるやまと氏の出身ですが、その母、すなわち天皇の外祖母が土師真妹 まいもでした。遠縁とは言え、天皇と血縁関係があったことが、改姓許可や侍読就任に好影響をもたらしたかも知れません。この真妹の系統は、9年後に桓武天皇によって「大枝おおえ 」の姓を与えられました(『続日本紀』延暦9年12月朔条)。さらに応天門の変(866年)の時に大枝音人おとんどが「大江」と改めます(『三代実録』貞観8年10月15日条)。子孫には朝綱あさつな維時これとき匡衡まさひら匡房まさふさといった学者がいます。すなわち紀伝道の家柄として並び称される菅原氏と大江氏は親戚であったということです。

天皇家略系図(3KB)
天皇家略系図

 「菅原」の地名は奈良市西部に今でも残っていますが、長岡京(784年)・平安京(794年)と、2度の首都移転を経て、菅原氏も平安京に移住します。古人の子供のうち、最も才能に恵まれたのが四男の清公(770〜842)でした。延暦17(798)年、29歳で方略試ほうりゃくしに及第したのを振り出しに彼は官途に就きますが、延暦23(804)年、桓武天皇の晩年に派遣された遣唐使の一員として唐王朝を訪れたことが、彼の人生にとってプラスに作用しました。弘仁9(818)年、嵯峨天皇は儀式や衣装から諸門の名称に至るまで唐に倣うよう命じましたが、当時式部少輔しきぶのしょうだった清公が実務を担当することになりました。
 弘仁10(819)年文章博士もんじょうはかせ兼任、弘仁12(821)年式部大輔しきぶのたいふ転任と、清公は紀伝道の顕職を歩みます。しかし左中弁さちゅうべんに任じようとしたところ、激職ゆえに拒み、右京大夫への異動を希望しました。それを聞いた嵯峨天皇は立腹もせず、右京大夫は何位相当かと尋ねました。清公が「正五位です」と答えたところ、天皇は早速、相当する位を従四位に引き上げました。この時清公は従四位下だったのです。しかし左中弁も右京大夫と同じく正五位上相当の官ですから、特にこのような措置を取る必要はありません。嵯峨天皇の厚遇ぶりが窺える挿話です。
 そして淳和じゅんな天皇の代になり、天長元(824)年、播磨権守はりまのごんのかみとして現地に赴任することになりました。30代後半に尾張介おわりのすけとして赴任した経験があるとは言え、今回の人事は55歳という年齢もあって人々から左遷と噂されました。しかし翌年、公卿の間から「国の元老を都から離すべきでない」という意見が出て都に呼び戻され、再び文章博士を兼任しました。その後、大学頭や但馬守たじまのかみ(遥任)などを歴任しますが、文章博士の職は、博士再任の翌年に任じられた左京大夫ともども、17年後に亡くなるまで元のままでした。
 承和6(839)年、70歳にして従三位となりましたが、体力も衰え、歩くのもままなりません。そこで仁明にんみょう天皇は、紫宸殿ししんでんの前庭に牛車を乗り入れることを許しました。しかし年齢には勝てず、病気で臥せることも増え、3年後に73歳で亡くなりました。

 この時代は、嵯峨天皇の意向を受け、『凌雲集りょううんしゅう』『文華秀麗集ぶんかしゅうれいしゅう』『経国集けいこくしゅう』と、勅撰の漢詩文集が次々と編纂されました。清公はすべての編纂事業に関与し、さらに法律の注釈書『令義解りょうのぎげ』編纂にも携わっています。平城へいぜい・嵯峨・淳和の桓武3兄弟と周囲の貴族・官人たちを中心とした、まさに「官僚の文学」の世界ですが、その作者群は、官僚を目指して大学で学んだこともあって漢文に通暁していた空海はもとより、有智子うちこ内親王(嵯峨天皇皇女、初代賀茂斎院)のような女性にまで及んでいます。
 当時重要視されたのが、天皇の命を受けて詩を詠む「応制おうせい(応製とも)」や天皇の作に和す「奉和ほうわ 」で、清公もしばしば他の人々と共に嵯峨天皇の詩に和しています。彼らの作品は、山崎(京都府大山崎町)や神泉苑しんせんえん(大内裏の南にあった大規模庭園)を舞台としながら、中国の山紫水明の風景を詠んでいたり、出征したまま帰らぬ夫を待つ女になりきってみたり、観念的あるいは中国的な内容を多分に含みますが、天皇を中心に詩を作り、「君となへ、臣和す」(『文華秀麗集』序)光景を共有することに意義がありました。
 そもそも『経国集』の名は、魏の文帝(曹丕そうひ )の言葉、

文章は経国けいこく大業たいげふにして不朽の盛事せいじ なり。年寿ねんじゆは時有りて尽き、栄楽はの身にとどまる。二者は必ず至るの常期あり、文章の無窮なるにかず。
(文学は国家経営にとっての大事業であり、滅びることのない偉大な仕事である。寿命は時が来れば尽き、栄華は生きている間だけのことである。この二つには必ず終わる時が来るのであり、文学が永遠であることには及ばない。)
(『文選』巻52「典論論文」)

に由来します。『凌雲集』や『経国集』の序文において言及される言葉ですが、本来は文学の永続性を述べたはずの箇所です。それを「文章は経国の大業」の一句にのみ注目し、文学の持つ政治性を強調する道具としたのが、平安初期の貴族でした。行幸してはを詠じ、渤海使ぼっかいしを歓待しては詩を作る。この行為には、奈良末期から繰り返されてきた血なまぐさい王位継承争いを背景に、家父長嵯峨を頂点として皇族や貴族・官僚を一体化させる効果がありましたが、宴会の連発は財政逼迫を加速させることにもつながります。
 嵯峨上皇の思い描いた共同体は、あくまでも観念の産物に過ぎませんでした。果たせるかな、承和9(842)年7月、上皇が崩御した直後に起こったのが、皇太子恒貞つねさだ親王以下、故淳和上皇に近い勢力を一掃した承和の変でした。病床に臥せっていた清公が、共同体の崩壊する瞬間を目撃しなかったのは、幸いであったと言うべきかも知れません。

 清公の四男が是善これよし(812〜880)です。彼は清公が43歳の時に生まれた末っ子で、弘仁13(822)年、11歳にして嵯峨天皇の前で漢籍を読み詩を賦した早熟児でした。天長10(833)年に22歳で文章得業生もんじょうとくごうしょうに選ばれ、6年後の承和6(839)年に方略試に及第します。大学助だいがくのすけ大内記だいないきなどを経て、承和12(845)年、34歳で文章博士に任じられました。道真が生まれたのはこの年です。2年後に東宮学士とうぐうがくし(皇太子の教育担当者)を兼ね、仁寿3(853)年に大学頭だいがくのかみとなります。その一方、地方官はもとより、弾正大弼や刑部卿ぎょうぶきょう(最高裁長官)をも勤めますが、22年間文章博士としてその任にあり、大勢の学生を指導しました。そして貞観12(870)年、式部大輔しきぶのたいふとなり、貞観14(872)年、61歳で参議を兼ね、貞観16(874)年には勘解由長官かげゆちょうかん(国司等の交替に際して発行される証明書を審査する役職)をも兼ねます。
 元慶元(877)年、道真が式部少輔しきぶのしょうとして式部省に入り、是善は近親者が同じ職場に勤務することを制限する規定(選叙令7同司主典条)に従って式部大輔を退きますが、後任は弟子の橘広相たちばなのひろみであることも含め、官職の世襲を思わせるものがあります。
 元慶3(879)年、ついに亡父と同じ従三位になったものの、年明けから床に就き、8月30日に帰らぬ人となりました。享年69歳。

官職就任退任在任年数
大内記承和9(842)/7/25承和14(847)/5/10以降
承和15(848)/2/14以前
5年
文章博士承和12(845)/3/5貞観9(867)/2/1122年
大学頭仁寿3(853)/1/16斉衡3(856)/2/83年
左京大夫斉衡3(856)/2/8天安元(857)/5/8以降
天安2(858)/5/21以前
1〜2年
弾正大弼貞観5(863)/2/10貞観6(864)/1/161年
刑部卿貞観6(864)/3貞観12(870)/2/146年
元慶元(877)/1/15元慶4(880)/8/303年
式部大輔貞観12(870)/2/14 元慶元(877)/1/157年
参議貞観14(872)/8/25元慶4(880)/8/308年
勘解由長官貞観16(874)/2/29元慶4(880)/2/216年

 主な官職の在任期間を整理したのが上の表ですが、刑部卿や勘解由長官のように、法律の分野でも活躍したことが分かります。他にも法令集『貞観格式じょうがんきゃくしき』の編纂事業にも参加していますから、清公ほど紀伝道一辺倒の経歴だったわけではありません。しかし、道真の視点に立つと、少し事情が異なります。
 そのことは、『扶桑略記ふそうりゃっき』に収められた是善の薨伝の筆致に窺えます。部分的にしか残っていないこの文章の作者が道真らしいことは「吉祥院法華会願文」の解説に記した通りですが、是善の伝記でありながらしばしば清公に言及する、是善の官歴について「廿二(歳)にして文章得業生に補せらる。の後、文章博士・東宮学士・大学頭・式部大輔、相次いで補任 ほにんせらる」と紀伝道に関する職ばかり列挙する、「(清公は)しきりに顕要けんえう(要職)をて爵は三位に至るも、なほ文章博士り。其の儒門の領袖為るを以てなり」「(是善は)貞観十四年八月、参議を拝す。式部大輔なほ兼ねたり」と、高位高官に登った学者であることを強調して書かれています。もともと、参議は特定の官職ではなく「議論に参加する」資格ですから、何らかの京官を兼ねているのが普通です。後に続く「元慶元年、刑部卿に遷る。勘解由長官・近江守もとごと」のように書き流すべき箇所に「尚」の一字があると、多少の違和感を覚えます。

 曾祖父古人・祖父清公・父是善と、直系の人物について詳しく述べてきました。ここで想起されるのが、後年、道真が『菅家文草かんかぶんそう』を醍醐天皇に奏上した時、祖父と父の漢詩文集を合わせて奉ったことです。この時、道真は奏状(『菅家後集』674「家集を献ずる状」)の末尾に、一緒に奏上するのは、菅原家が学者と詩人を兼ねる家柄で、自分が高位高官に登ったのも父祖の余慶によるからだと、理由を述べています。父祖を顕彰しようとする態度には、何ら変わるところがなかったのです。
 鴻儒こうじゅとして朝廷に重きをなした祖父と父のあとを承け、紀伝道の正統な担い手たらんとする意識が彼にはありましたが、そのことを確認しておきたくて、長々と経歴を振り返った次第です。

 詩の冒頭から、武ではなく文で朝廷に仕えてきた菅原家の伝統を誇らしげに詠います。祖父が従三位に登ったのも、父が参議として公卿に列せられたのも、「稽古」すなわち学問の賜物。事あるごとに祖父の事績を耳にして、学問にこそ子孫繁栄の道があると固く信じた道真は、両親の期待を一身に受けて幼い頃から勉強に励みました。努力の甲斐あって23歳で文章得業生に選ばれ、父から私塾ともども祖父ゆかりの書斎を譲られます。この時、道真は菅家の後継者として紀伝道を全うする決意を固め、方略試ほうりゃくしに及第するまでの3年間、家庭も顧みずに受験勉強に明け暮れました。
 そして元慶元(877)年10月、33歳で文章博士となり、家業を継げたと道真は喜びました。しかし友人知人がこぞって就任を祝う中、父親だけは相好を崩しませんでした。彼は息子に訓戒を垂れます。「お前には兄弟がいない。文章博士は決して卑しい職ではない。私は長年この職を勤めたが、身を慎んで人の心を恐れたのだ。」
 学問を志す人々にとって、文章博士は羨望の的でした。またそれゆえに嫉妬の対象でした。文学と政治が表裏一体をなさなくなり始めた時代において、是善は、春澄善縄はるずみのよしただのように弟子を取らずに学閥抗争から逃れる生き方は立場上できないと重々承知していましたから、温厚な性格でもって当代の学者や文人と交友関係を結び、穏便に事に当たる策を取りました。そんな是善にしてみれば、自分が正しいと思ったことを臆面もなく相手にぶつける道真の態度が心配でなりません。60代半ばにして息子の言動を案じた裏側には、「自分がこの世を去った時、我が子を守り、支える人間はいるのだろうか?」という肉親の危惧が見え隠れします。

 兄弟がいなければ、外にその人物を求める他ありません。親友として幾人かの名前を挙げることができますが、その代表格が、舅であり恩師である島田忠臣しまだのただおみであり、この3年前に知り合ったばかりにも関わらず、終生信頼を寄せ、最期に『菅家後集』を託した紀長谷雄きのはせおであることは言うまでもありません。
 忠臣が死んだ時、今後詩文の道は荒れ果てるだろうと道真は言い(『菅家文草』05:347「田詩伯を哭す 」)、道真が客死してからというもの、長谷雄は人前では体裁を取り繕っただけの詩しか作らなくなりました(『本朝文粋』08:201「『延喜以後の詩』序」)。2人とも温厚な性格の持ち主だったことが交友を長続きさせた一因でしょうが、このような行動を見ると、学統や婚姻関係ではなく、詩人として許し合った人々の心の底をうかがい見る思いがします。

 道真は父の言葉を聞き、薄氷を踏む思いで戦々兢々と過ごしたと言います。そして元慶4(880)年、学生相手に講義をするよう命じられました。ところが、開講からわずか3日で授業の内容を批判されました。そして2年後、文章生から文章得業生を選抜した時も、不合格となった生徒の間から、「審査が不公平だ」「人物を見る目がない」と不満の声が上がりました。公平に審査したつもりの道真にすれば、到底納得がゆきません。文章博士としての一挙一動に難癖をつけられ、ひどく自負心を傷つけられた彼は、5年前に亡き父から聞いた忠告を思い出し、あの言葉は真実だったのだとつくづく思い知らされたのでした。

 元慶3年の冬から、道真は『後漢書ごかんじょ』の講義を行っていますので(『扶桑集』09・紀長谷雄「『後漢書』の竟宴にて、各史を詠じ、〓公を得たり」詩序)、批判を受けた講義とは、この『後漢書』の授業を指すのかもしれません。ただ、方略試ほうりゃくし及第から間もない少内記しょうないき時代に私塾で『漢書』を講義した経験がありますから(『田氏家集』01:055)、文章博士になって始めて授業を持ったという訳ではないのです。
 道真の前に『後漢書』の講義を担当した巨勢文雄こせのふみお と比較して、「説明が下手で分かりにくい」などと言われたのでしょうが、彼が冷静に聞き流せなかったのは、単純に過敏な性格によるものと思ってはいけません。これは勤務評価に関わる問題だからです。
 「考課令こうかりょう」は、文字通り人事考課に関する法令ですが、ここには「ぜん」と「さい」という査定基準が示されています。「善」は人物に対する評価で、「徳と義が備わっている」「清廉で慎ましやか」「公平」「職務に忠実」という4つの観点から審査されます。そして「最」は個別の職務に対する評価です。この「善」と「最」をどれだけ満たしているかによって、年に一度、長官が9段階の評価を下します。
 「生徒の評価が不公平だ」という声は、「公平」という「善」に抵触し、また兼任している式部少輔しきぶのしょうの「最」、すなわち「人物を考査し、才能を抜擢している」にも関係します。文章博士は参議・蔵人頭くろうどのとうと同様に令外官りょうげのかん(律令制定後に設置された官職)ですが、大学博士(明経道の教官)に準じて考えれば、「生徒を正しく教え導き、学業を全うさせる」ことが「最」となります。これは教育に対する評価であり、批判を受けるようでは「最」を満たしません。これら「善」と「最」に関する批判であったがゆえに、道真は神経をとがらせることになったのです。

 ただ、道真は文章博士に就任してから慎重に行動してきたと言いますが、同じ年、文章得業生であった紀長谷雄に宛てた詩(『菅家文草』02:094「詩を吟ずることを勧め、紀秀才に寄す」)を読むと、本当にそうなのかと疑問が沸いてきます。
「数年前から、知識人は公私を問わず議論を好むようになったが、基本がしっかりしていないから馬鹿としか言いようがない。それ以外の者は酒に酔って大騒ぎし、人を罵倒するばかりだ。そこでこの詩一篇を作り、詩を詠むよう君に勧める。」
 これはその詩題に付された自注ですが、この攻撃的な口調に、皆さんは何を感じ取りますか?
 さらに詩においても、口先で空論に明け暮れるか、世間に背を向けて大騒ぎするだけの知識人に対して、彼は痛烈な批判を浴びせています。「王道政治に資する詩を詠みなさい」、これが長谷雄に向けたメッセージの本質ですが、一方で他者に向けた歯に衣着せぬ言葉を聞く時、是善は息子の性格を良く見抜いていたと気づかされるのです。

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口語訳

博士という官職の困難さ〈古調詩〉

わが家は武将の家柄ではない
学問をもって仕えてきたのだ
祖父は従三位に登り
父は公卿に列した
これは学問のお陰だと分かっているから
自分も子孫のために勉強しようと思った
文章得業生もんじょうとくごうしょうに推薦された日に
努力して家業を継ごうと思った
文章博士もんじょうはかせとなった年に
幸いにしてその目標は達せられた
人々はみな集まって就任を祝ってくれたが
父だけは私の身を案じられた
どうして心配されたのか
「お前が一人っ子なのが気掛かりなのだ
 博士の官職は卑しいものではないし
 博士の給与は軽いものではない
 私は先にこの職を経験して
 身を慎んで人の心を恐れたのだ」
心のこもった忠告を初めて聞いてから
畏れ慎んでうかつに行動しなかった
(元慶)四年 朝廷で審議があり
私が学生たちに講義をすることとなった
(だが)講義を始めてわずか三日で
中傷の声が耳に届いた
今年 文章得業生に推挙する推薦文を書いた
判定基準は 極めて明確なのに
才能がなくて先に落とされた者は
(文章博士とは)名ばかりだと陰口を叩く
授業に落度はないし
選考も公平にやっている
本当だったのだ 父上のおっしゃったことは
問題が起こる前に私を戒められたのだ

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