山陰亭

原文解説口語訳

『菅家文草』03:190

得故人書、以詩答之  故人の書を、詩をもつて答ふ
〈以下四十四首、到州之作〉  〈以下四十四首、州にいたりての作なり〉

〓封知再改風光  封をひらかば 風光を再び改むることを知る
読未三行涙数行  読むに三行ならずして 涙数行
先悶秀才占夏月  先づもだゆ 秀才しうさいの夏月を占ふことを
〈伝聞、藤秀才  〈伝へ聞く、藤秀才
 五月可策試。〉  五月策試すべしと。〉
更思進士泥春場  更に思ふ 進士しんじ の春場になづむことを
寄身雖苦為南海  身を寄するに 南海ることを苦しぶといへども
投歩猶安自北堂  歩を投ずるに なほ北堂り安らかなるがごとし
努力君心能努力  努力ゆめ 君が心 く努力せよ
存亡応在此文章  存亡そんばうの文章にるべし

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解説

 仁和2(886)年3月、道真は都を後にしました。讃岐赴任により、学生の指導を中途で放り出したことを相当気に掛けていたことは、大学寮で孔子廟の前を行きつ戻りつしていた(03:187「北堂の餞宴にて、各一字を分かつ」)ことや教え子が文章生として重陽宴に出席したと聞いて喜んだ(03:199「詠ぜし後、進士が公宴詩を聞く。欣感に堪へず、便ち一絶を寄す」)ことからも窺えますが、生徒の方も旧師に手紙を送ったりしていました。中には遠路はるばる現地に会いに来た者までいました。

 今回の手紙の主はそんな教え子の一人でしょうか。国府に届いた彼の近況報告によれば、指導教官が突然交代したことで学生達は少なからず混乱していました。それを知った道真が「三行読まずに涙が数行」と書くのは軽い冗談ですが、心の中は申し訳なさと情けなさで一杯でした。道中ある文章生もんじょうしょうから、春の省試しょうしが白居易の「補逸書」(『白氏文集』巻46)から出題されたと聞き、つい最近まで出題・採点をしていたことも手伝って、この300字あまりの文章に随分苦戦したのではないかと受験生を案じていた(03:189「途中中進士に遇ひ、便ち春試の二三子を訪ふ」)ところに、疑心暗鬼に陥ったのか、5月26日(『類聚符宣抄』巻9)に方略試ほうりゃくし受験を控えた文章得業生もんじょうとくごうしょう藤原春海が試験のヤマを張りだしたというのですから、やり切れません。

 省試の問題を作ったのは式部大輔しきぶのたいふ兼文章博士の橘広相ひろみ 式部少輔しきぶのしょう藤原佐世すけよ でしょうから、道真が父親の弟子2人の出題内容をどう捉えていたかは読み切れません。しかし今度の試験官は少内記しょうないき三善清行みよしのきよゆきです(『本朝文粋』03:073)。
 後に清行が反道真派の急先鋒に立ったのは、元慶5(881)年に道真を試験官として方略試を受験した際、一旦不合格と判定され、2年後に判定を覆してようやく合格できた経緯(『公卿補任』延喜十七年条尻付)が尾を引いていると言われます。しかもこの時、大蔵善行おおくらのよしゆきから届いた推薦状を道真が書き換えて清行を嘲弄したという一件があり(『江談抄』)、清行にしてみれば5年目に訪れた意趣返しの機会ではありました。ただ実際のところ、うち1問(もう1問は現存していません)が「神祠を立つ」なのは当時の出題傾向から判断して妥当だと思いますし、春海も何とか合格したようなので(『尊卑分脈』)、取り越し苦労に過ぎなかったのですが。

 南海道の国に赴任していると何かと嫌なことも多いけれど、指導体制の変化にうろたえる学生に比べればまだ気が楽。合否は解答の出来次第なのだから、もっと精励して文章に磨きを掛けなさい。道真は教え子にそう諭し、ひとまず省試の結果が伝わるのを待つことにしました。

 それにしても、「進士の春場に泥む」とは奇妙な表現です。省試は学生から文章生(進士)を選抜するための試験ですし、文章生から文章得業生(秀才)に進むには教官の推薦が必要です。ならば文章生には選抜試験は必要ないことになりますが、02:087「博士難」の「挙牒(牒は公文書の一種)を修す」と同様、推薦状を書くための選抜試験と理解すべきでしょうか。

 なお、この詩については、佐藤信一氏による校異(「『菅家文草』巻三注釈稿(三)」「国文白百合」28、1997年3月)を参考に大系本の第1句「封」の「拆」をてへんからつちへんに、第6句「北堂」を「北堂」に戻しました。第5句「南」は「南」とするテキストもありますが、どちらも仄字であり、『菅家文草』では両方とも使われていますので、そのままにしてあります。
 そしてもう一箇所、詩題の自注を「以下四首、〜」とするテキストがあります。『白氏文集』にならって『菅家文草』編纂時につけられたものですが、34首と44首では全然異なりますので、以降の作品を並べてみましょう。

 45首目に「以下暇を乞ひて入京しての作なり」と自注がありますが、この注記により、1つ前の44首目までが「州に到りての作」だということが明らかになります。すなわち「卅」に縦線を1本加えた文字が正しいことになりますが、外字のため便宜上「四十」に開いておきました。

 ちなみに同様の自注について調べたところ、それぞれの作品数は大系本の作品番号から算出した数値とほぼ一致するようです。ほぼ、と言うのは、04:323の「自此以下十三首」と05:338の「自此以下三首」の間が15首になってしまうためです。この問題を解決するには、「十三」を「十五」の誤字と見るか、04:333〜335「予秩を罷めて帰京し、已に閑客為り。...」で始まる、いわゆる「逍遥遊しょうようゆう」3首を1首と数えて2首減算する必要があります。
 ただ連作の数え方については作者自身にも統一性がないようで、大半は1首ずつ数えているものの、「逍遥遊」3首以外にも連作全体を1首としなければ計算が合わない箇所があります。それが02:092「山家の晩秋」4首・02:119「余、近ごろ『詩情怨』一篇を叙べ、...」2首です。02:077〜03:183が「百六首」と記されているためですが、02:119は後に続く02:120・121「予作詩情怨之後、...」と同じく、菅野惟肖と2首ずつ贈答した律詩ですから、片方は1首、もう一方は2首と数えるのは適切ではありません。
 また、05:366〜06:429の「六十五首」は実際には64首しかなく、1首不足する格好になっています。さすがにこの齟齬の原因まではつかめませんでした。

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口語訳

友人から手紙が届き、詩で返信する
〈以下の四十四首は、(讃岐)国に着いてからの作である〉

手紙を開封すると 景色がまた新しくなった気がする
三行も読まないうちに 涙が幾筋も(流れ落ちる)
まず悩むのは 文章得業生もんじょうとくごうしょうが夏の試験(の出題予想)を占っていること
〈伝え聞いたところでは、文章得業生藤原(春海はるみ )君は
 五月に方略試ほうりゃくしを受けるという。〉
次に案じるのは 文章生もんじょうしょうが春の試験に苦戦すること
身を任せると 南海道なんかいどうであるのは辛いが
歩くと まるで文章院もんじょういんより心が安らぐようだ
精励して 君には 努力してもらいたい
合否は(君の)文章次第なのだから

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