山陰亭

原文解説口語訳

『菅家文草』06:437

北堂『文選』竟宴、各詠句、  北堂の『文選もんぜん竟宴きやうえんにて、おのおの句を詠じ、
得「乗月弄潺湲」       「月に乗じて潺湲せんゑんもてあそぶ」を得たり
〈仁寿年中『文選』竟宴、   〈仁寿にんじゆ年中の『文選』竟宴にて、
 先君詠句、          先君句を詠じ、
 得「樵隠倶在山」。      「樵隠せういんともに山にり」を得たり。
 古調、多叙所懐。       古調こてう にして多くおもふ所をべたり。
 予、今習先君体、       われ、今先君が体に習ひ、
 寄詩言志。          詩に寄せて志を言ふ。
 来者語之〉          来者らいしや語れ〉

文選三十巻  文選もんぜん 三十巻
古詩一五言  古詩こし 一五言
五言何秀句  五言 いづれか秀句なる
乗月弄潺湲  月に乗じて潺湲せんゑんもてあそ
半百行年老  半百 行年かうねん老い
尚書庶務繁  尚書しやうしよ 庶務しげ
雖思楽風月  風月を楽しまんと思ふといへども
不放到丘園  丘園きふゑんに到ることをはなたれず
非唯無所楽  ただ 楽しむ所無きのみにあら
悠悠有所煩  悠悠いういうとして わづらふ所
水空触眼逝  水空しくまなこに触れて
月暗過頭奔  月暗くかうべよぎりてはし
惣為貪名利  すべて名利をむさぼらんがためなり
亦依憂子孫  また子孫を憂ふるに
此時玩斯集  の時 の集をもてあそばば
如避世喧喧  世の喧喧けんけんたるを避くるがごと

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解説

 寛平8(896)年の晩秋か冬の頃、紀伝道の校舎である文章院もんじょういん(北堂)で行われていた『文選もんぜん』の講義が終わり、竟宴きょうえん(あるテキストの講義が終了した後に開かれる宴)が催されました。竟宴では、そのテキストの中から各人に詩題を割り振って詩を詠みますが、来賓として列席した中納言菅原道真に割り当てられたのは、中国南北朝時代の文人謝霊運しゃれいうん(385〜433)の「月に乗じて潺湲せんゑんもてあそぶ」の句でした。
 原文では、題を「各詠史句、得〜」としますが、自注に「先君詠句、得〜」とあるように、「史」は衍字と思われます。それは、「(各)詠史、得〜」と題するのは、同じ竟宴詩でも歴史書を対象とした場合だからです。表にしてみましょう。

作品番号形式詩題
『文華秀麗集』02:042・嵯峨天皇五言排律六韻「史記講竟、賦得張子房」
『文華秀麗集』02:043・良岑安世五言律詩「(史記講竟、)賦得季札」
『文華秀麗集』02:044・仲雄王五言排律十韻「(史記講竟、)賦得漢高祖」
『文華秀麗集』02:045・菅原清公五言排律六韻「(史記講竟、)賦得司馬遷」
『田氏家集』01:037七言排律十韻「於右丞相省中直廬読『史記』竟、詠史、得高祖、応教」
『田氏家集』01:055七言律詩「菅著作講『漢書』、門人会而成礼、各詠史※題材は董仲舒
『田氏家集』02:094七言律詩「『後漢書』竟宴、各詠史、得蔡〓
『田氏家集』03:188五言律詩「『史記』竟宴、詠史、得毛遂※『菅家文草』01:034と同時の作?
『菅家文草』01:009七言律詩「八月十五夜、厳閤尚書、授『後漢書』畢。各詠史、得黄憲
『菅家文草』01:034五言律詩「『史記』竟宴、詠史、得司馬相如
『菅家文草』01:063七言絶句「『漢書』竟宴、詠史、得司馬遷※『田氏家集』01:055と同時の作?
『菅家文草』02:091五言律詩「『後漢書』竟宴、各詠史、得光武※『田氏家集』02:094と同時の作?
『菅家文草』02:145七言律詩「勧学院『漢書』竟宴、詠史、得叔通
『菅家文草』05:372七言律詩「文章院『漢書』竟宴、各詠史、得公孫弘
『扶桑集』09・紀長谷雄七言律詩「『後漢書』竟宴、各詠史、得〓公※『菅家文草』02:091と同時の作
『扶桑集』09・紀長谷雄七言律詩「北堂『史記』竟宴、各詠史、得叔孫通
『扶桑集』09・菅原淳茂七言排律八韻「北堂『漢書』竟宴、詠史、得高祖
『扶桑集』09・大江朝綱七言排律六韻「『漢書』竟宴、詠史、得楊雄
『扶桑集』09・菅原文時七言律詩「北堂『漢書』、詠史、得路温舒
『扶桑集』09・源訪七言律詩「北堂『漢書』、詠史、得李広
『扶桑集』09・紀在昌七言排律六韻「北堂『漢書』竟宴、詠史、得蘇武
『扶桑集』09・橘在列七言排律六韻「北堂『漢書』竟宴、各詠史、得淮南王劉安

 「得」の後に人名がくる点も、詩句を伴う今回の詩題と明らかに異なりますね。また、時代は下るものの、現存する『文選』竟宴詩として天慶4(941)年に大江澄明おおえのすみあきら(朝綱の子)が詠んだ作品を挙げることができますが(『扶桑集』07)、その題は「北堂『文選』竟宴、各詠句、探得『被雲臥石門』」と、「詠句」の形を取っています。その他、「相国東廊、講『孝経』畢。各分一句、得『忠順弗失而事其上』」(『菅家文草』02:146)という題表記は、今回の詩に類似するものと言えるでしょう。
 『文選』は三史さんし (『史記』『漢書』『後漢書』)と並ぶ紀伝道の基本テキストであり、しばしばこの詩文集を参看して漢詩文が作られていました。現在は全60巻からなりますが、道真が「文選三十巻」と言うように、全30巻のものもありました(藤原佐世編『日本国見在書目録』)。逆に大江匡衡おおえのまさひらは全60巻のものを用いていたようです(『江吏部集』02:073題・02:077「述懐、古調詩一百韻」)。

 表を見て頂くと分かりますが、七言律詩が若干多い傾向が見られるものの、竟宴詩には特定の形式はないようです。
 また、同時の作とされる『田氏家集』01:055と『菅家文草』01:063は七言律詩と七言絶句、『田氏家集』02:094・『菅家文草』02:091・『扶桑集』09の紀長谷雄詩が七言律詩と五言律詩であるように、同じ席で詠む場合でも一致しません。別の機会に作られたという見方も可能ですが、『扶桑集』の長谷雄詩(七言律詩)には序文があり、元慶6(882)年春の作だと明記されているため、『菅家文草』の配列順から判断して『菅家文草』02:091(五言律詩)と同じ席で作られたことはほぼ確実であり、統一性のなさは否めません。

 しかし、その問題とは別に、この詩は古調詩という本来公的な場所には用いられない形式をとっています。その理由は自注で詳しく述べられています。
 今から40年以上も前、道真がまだ幼い頃の仁寿にんじゅ年間(851〜854)に『文選』竟宴が開かれた際、父是善も「樵隠せういんともに山にり(木こりと隠者は共に山中にいる)」という、謝霊運の別の詩句を割り当てられて詩を詠みましたが、それは古調詩の形式をとって自らの感慨を述べた珍しいものでした。そこで道真も父親に倣い、五言八韻の古調詩によって思うところを述べようとしたのです。

 「『文選』全30巻の五言古詩のうち、最も秀逸な句、それが詩題の『月に乗じて潺湲を弄ぶ』である」。そう詠い起こしながら、原典の内容を敷衍する竟宴詩の枠組を外れ、道真は自分の身の上について語り始めます。
 50歳を過ぎ、「尚書しょうしょ」の仕事に追われる多忙な日々。当時52歳。位は従三位、官は中納言ちゅうなごん民部卿みんぶきょう左大弁さだいべん春宮権大夫とうぐうごんのたいぶといくつもの要職を兼ねていました。大系本の川口久雄注や藤原克己氏(『菅原道真』)は、この「尚書」とは「戸部尚書こぶしょうしょ」=民部卿を指すと言います。確かに道真は8月28日に民部卿に任じられたばかりでした。
 八省はっしょうかみ(長官)を中国風に表記すると「○○尚書」になります。『田氏家集』02:095に「戸部礼二尚書」とあるのはその一例で、戸部尚書=民部卿と礼部尚書=治部卿を指しています。人民の管理や納税を担当する民部省みんぶしょうは実務的側面が強く、長官の果たす役割も大きいのですが、もう一つ、「尚書」と称する別の官職があります(『拾芥抄』官位唐名部)。それが弁官べんかんです。道真が「庶務繁し」と言ったのは、むしろ左大弁の職のことではないでしょうか。道真は寛平3(891)年に左中弁となり、寛平5(893)年に左大弁に転じています。

 律令制の組織の概要を指して、「二官 にかん八省はっしょう一台いちだい五衛府ごえふ」という言葉がありますが、そのうち政治の中枢に当たるのが二官(太政官だじょうかん神祇官じんぎかん)のうちの太政官で、その下に八省(中務ちゅうむ省・式部しきぶ 省・治部じぶ省・民部省・兵部ひょうぶ省・刑部ぎょうぶ省・大蔵おおくら省・宮内 くない省)が属していました。そして太政官と八省をつなぐ事務局が、太政官に属する左右の弁官局べんかんきょくです。左弁官局が中務・式部・治部・民部の四省、右弁官局が残る四省を担当し、職員は左右共に大弁だいべん中弁ちゅうべん少弁しょうべんの各1名。この三官、相当する位が異なるだけで職務は同じです。それゆえか、中国風に表記すると、左大弁も左中弁も左少弁も皆「尚書左丞しょうしょさじょう」あるいは「左尚書さしょうじょ」になってしまい、区別がつきません。
 それはさておき、道真が讃岐守だった時、一時帰京した際に右中弁平季長たいらのすえながへ贈った詩に、彼と我との立場を対比して「早くして 尚書はつねに劇務なり/帰らんことを告げて 刺史しし(国司)はしばらく閑人なり」と述べた一節があります(『菅家文草』03:240「三年歳暮、更に州に帰らんと欲し、聊か懐ふ所を述べ、尚書平右丞に寄す」)。「劇務」は文字通りの激務。弁官はとかく多忙な職で、太政官が発した下達文書(太政官符だじょうかんぷ)を受理すると、その翌日には各省に下達するよう法律に規定されている(「公式令」受事条)ほどです。この句などはまさに弁官を「尚書」とのみ言い、激務であることを述べた格好の例です。また、紀在昌きのありまさは、文章院で『漢書』を講じていた文章博士菅原淳茂あつしげ(道真の子)が延喜21(921)年に「尚書左少丞」こと左少弁を兼任することになり、弁官の仕事に忙殺されるようになったことを「機密の勤め、星を戴きていとま無し」あるいは「劇務の任に当たる」と述べています(『扶桑集』09)。
 そしてもう一つ、むしろこちらの方が重要なのですが、道真の言う「尚書 庶務繁し」という表現、どうも法律を念頭に置いているようで、「博士難」でも取り上げた「考課令こうかりょう」の最条に、「もろもろまつりごとを受けさづけ、処分すること滞らずは、弁官のさいよ」という規定があります。弁官は事務処理能力で評価されるということですが、ここまで一致すると、ことさらに「尚書」を民部卿と理解する必要はなさそうです。

 しかし、民部卿であれ左大弁であれ、思うように自然に接する機会が持てないのは、時間的な制約以上に精神的に束縛を感じていたためでした。
 今回、文章院で『文選』を講議したのは、式部少輔しきぶのしょう文章博士もんじょうはかせを兼任していた紀長谷雄でした。それが分かるのは、道真が7月5日に上申した「議者をして検税使けんぜいしの可否を反覆せしむることを請ふの状」(『菅家文草』09:602)において、検税使に選ばれた人々が別の職務に従事していることを挙げ、「式部少輔紀長谷雄は、北堂の『文選』の講説をはらず」と言及しているからですが、この奏状の内容こそが、道真の抱えていた憂鬱の要因でした。

 各国の財政状況を査察しようと朝廷が検税使の派遣を検討し始めた当初、道真は讃岐守時代の経験から、派遣について疑義を挟みました。大納言源能有みなもとのよしありら一部の公卿も同様の見解を持っていたようで、度重なる議論の結果、「検税使によって簿外資産と判定された稲(=収入)のうち、3分の1〜2分の1は国庫収入とはせず、用途は国司の裁量に委ねる」という結論で妥結しました。
 折衷案が出された時点、あるいは検税使の人選に入った時点と、都合二度反論する機会が道真にはあったものの、それ以上表立って反対することはありませんでした。ところが、検税使派遣を知った越前守小野葛絃ら現役地方官から困惑の声を聞かされ、納得できなくなって再検討を要望したのです。
 道真はこの奏状の中で、再審議を申し立てるまでの経緯と自らの躊躇を記した後、派遣に反対する理由を3つ挙げ、論理的に詰めてゆきます。原文でも、「今三条の否を挙げ、謹んで一覧の用を待つ。…… 其れ否の一なり。…… 其れ否の二なり。…… 其れ否の三なり。」と、問題点の数を先に示してから具体的な議論に入っており、現代のビジネス文書でも用いられる論理展開の手法を取っています。

 第1の理由は、簿外資産が国の財政難を取り繕う一手段となっていることです。
 律令制には出挙すいこ と言って、春に種もみを貸して秋に利息と共に回収し、元本は残して利息部分を財源に充てる高利貸の制度がありますが、この頃には不良債権と化し、うまく回収できなくなっていました。それどころか、有力農民から貴族まで、広範囲に渉る富有層に土地は集約され、口分田すら持たない貧困層に融資するのですから、よりリスクを増していたと言うほかありません。正税しょうぜい(中央財源)として帳簿上は100万束の稲があっても、実際に倉にあるのは半分の50万束です。それは、返済されたのはあくまでも利息部分であって、元本は貸したままだからです。そこで簿外資産の10万束を利息のみを返済している者を対象に無利息で貸し出したり、他の租税の補填に充当せざるを得ません。道真は地方官が善人ばかりだとは到底思っていませんし、自身讃岐で私腹を肥やす輩に直面してきたことも事実ですが、その問題点を承知した上で、地方官の自主性に任せるべきではないかと考えました。

 第2の理由は、簿外資産の稲の品質が劣悪なことです。一束を脱穀しても、多くて三升、少なければ一升にしかなりません。それを利息の補填 ほてんにも用いることなく強引に国庫に収めてしまえば、今まで稲を借りてきた百姓は生活に行き詰まってしまいます。

 第3の理由は、検税使に任じられた7名全員に、都ですべき本来の職務があることです。
 左中弁平季長たいらのすえながは、政局中枢部と官庁をつなぐ事務官僚として不可欠な存在。明言こそしていませんが、左大弁である道真にすれば、直近の部下がいなくなれば大変困るのは明白です。
 式部少輔しきぶのしょう紀長谷雄には、大学寮の試験官や文章院での『文選』講義の仕事があります。
 勘解由かげゆ次官大蔵善行おおくらのよしゆきは、国司交替に当たって後任者が前任者に発行する書類の監査や史書『日本三代実録』の編纂事業を抱えています。
 主税頭善世有友は、諸国から届く公文書に目を通さなければならず、一日も席を外せません。
 大膳大夫紀清躬は、地方官を勤めるべき人物であり、来春任期満了となる国を新たに担当する一人と考えられます。
 左大史望材は、元々の仕事が忙しいところに、山崎橋の修築という緊急の用事に追われています。
 「京にる七人のうち」と言いながら6人しか列挙されておらず、「七人」は「六人」の誤字かとも思われるのですが、先行する観察使かんさつしの例からすれば、畿内 きない・山陽道・山陰道・東海道・西海さいかい道・北陸道・東山とうざん道の7つに対応する7名となります。あるいは畿内を省いて6名としたのでしょうか。しかし彼らは皆、余人をもって代えがたい職務に就いています。もしこれらの人物が1年も都を留守にすれば、検税使派遣によるメリットよりも個々人の業務が停滞するデメリットの方が大きく、批判は避けようがない。

 そして最後に、人選を終える前に申し出なかった自らの責任を認めつつ、検税使派遣の必要性について、太政官で再検討して欲しいと本題を述べて結んでいます。

 これら3つの理由を俯瞰 ふかんすると、道真が検税使派遣に反対したのは第1の理由ゆえであったことは明白です。国庫収入の改善・地方官の汚職防止という点においては、確かに検税使は有用ですが、地方行政の自主性を否定することにもつながります。
 衰退してゆく律令制のもとでは、国司一人一人が法に反してでも現状に即して工夫を重ねる他なく、それによって生じた法的な逸脱は許容される、という理解が道真にはありました。これはひとり道真のみに見られる発想ではなく、有能な地方官の条件ですらあったことは、すでに天長元(824)年の太政官符に示されています(『類聚三代格』巻7公卿意見事)。廊下出身者の中核をなす中下級貴族の子息達がやがて地方政治の担い手となる構造も見逃してはなりませんが、そもそも、紀伝道という学問自体が、理論より実践を重視していたのです。
 紀伝道をベースとした道真の思考体系と実践については藤原克己氏の「詩人鴻儒菅原道真」(『菅原道真と平安朝漢文学』、初出1983年)に言い尽くされていることですが、政治家としての識見をどれほど有していたか考える上でなおざりにできない事柄だと思いますので、今しばし、他人のふんどしで取る相撲にお付き合い下さい。

 この学問が中国の歴史書をテキストとするのは、漢詩文を製作する際の典拠となる基礎知識を得るためであり、歴史書の良吏(名地方官)・貪吏(悪代官)伝を格好の実例として理想的な役人のあり方を学ぶことができたからです。讃岐守時代の「行春詞」(『菅家文草』03:219)・「路に白頭翁に遇ふ」(03:221)などは、この双方の要素を含む作品と言えましょう。さらには太政大臣や「阿衡」に職務権限があるかという問いに対し、律令制の基礎理念たるべき四書五経の説を採用した他の学者とは異なり、道真一人だけが、実際に即して史書に合致すれば良いとする立場から問題の本質を見抜いて喝破しています。後半生における登用を単純に宇多天皇のえこひいきの産物と割り切ることができないのも、また「寛平の治」における道真の位置付けについて検討を要するのも、そのような道真が有していた識見の高さにあります。

 しかし、この年の9月10日に宮中で催された重陽後朝の宴において、道真は「九日後朝、同じく『秋深し』を賦す、製に応ず」(『菅家文草』06:436)の中で随分いわくありげな事を述べています。
 「花がしおれても蘭は恨まない/露に濡れても竹は貞節を持している/雲に覆われても月は切れ間から地上を照らすだろう/どうして今更、他人にあれこれ説明しようか」。
 さらには「最近少々諫言を呈したところ、讒言を受けた。そこで応製詩を詠むついでに、いささか心情を文字にしておく」と注記しており、公的な詩の中では比較的個人的な心情を述べやすい後朝詩の特質を利用し、蘭・竹・月の三者に仮託して「どのような批判を受けようと、自分は間違ってはいない」と言わんとしていることは明らかです。

 検税使問題を蒸し返してから2ケ月も経たない仲秋8月末に、租税問題の総責任者である民部卿に任じられていますから、この問題提起はそれなりに評価されたようですが、いつでも胸を張っていられた訳ではありませんでした。周囲の雑音に対して物思いに沈むこともあり、謝霊運のように月にかこつけて水辺に遊ぶこともなく、さりとて水を見ても心は動かず、月はただ頭上を通り過ぎるだけです。この長篇詩のうち、「水空触眼逝/月暗過頭奔」の2句だけが、題を踏まえた表現なのですが、それさえも道真は否定します。そして自身の欲望と一族の繁栄に縛られて俗世間から脱することのできない己を認めるしかありませんでした。しかし『文選』こそがこの俗世間から逃れられる手段なのだ、とようやくテキストを賛美して道真の古調詩は終わります。

 『詩経』大序にあるように、心中にあるのが志、文字化されたのが詩です。それゆえ道真は思うところを詩にして読者に判断を預けました。形式・内容の両面において、竟宴詩の枠組から意識的に逸脱した作品であることは縷々述べてきたことですが、先行する父の作にならったとはいえ、道真がここで「仮中に懐ひを書す詩」(05:360)以来4年ぶりに、古調という詩形式を採用したことの意味は決して小さくないように思います。

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口語訳

文章院もんじょういんでの『文選もんぜん』講義終了を祝う宴席で、各自が(『文選』の)詩句を題材に詩を作り、
(題として謝霊運しゃれいうんの)「月にかこつけてさらさら流れる水の音を楽しむ」の句を得た
仁寿にんじゅ年間の『文選もんぜん』講義終了の宴で、
 亡父は(やはり謝霊運の)詩句を題材に詩を作り、
 (題として)「木こりと隠者は共に山中にいる」の句を得た。
 (その詩は)古調詩(の形式)で多分に感慨を述べていた。
 私は、今亡父の形式にならい、
 詩にこと寄せて思うところを述べる。
 後世の者は論ぜよ。〉

『文選』は三十巻(あり)
古体詩は五言(からなる)
(その)五言詩のうち どれが秀逸な句なのか
(それは)「月にかこつけてさらさら流れる水の音を楽しむ」(の句だ)
(私は)五十歳(を過ぎて) 年を取り
左大弁さだいべんは 雑務が多い
自然を楽しもうと思っても
自由に小高い丘の上の庭へ行くことができない
(それは)楽しむ機会がないからだけではない
憂えて 思い悩むことがあるのだ
水はいたずらに目について流れ去り
月はひそかに頭上を訪れて過ぎ去る
(そう感じるのも)みな名声や利益に固執しようとするからだ
また子孫のことが心配だからだ
こんな時 この詩文集を愛読すれば
騒々しい世間から逃れたような気分になる

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