山陰亭

原文解説口語訳

『菅家後集』477

読楽天「北窓三友」詩〈七言〉  楽天らくてんが「北窓ほくさうの三友」の詩を読む〈七言〉

白氏洛中集十巻  白氏はくし 洛中らくちうの集十巻
中有北窓三友詩  中に「北窓の三友」の詩あり
一友弾琴一友酒  いつの友は弾琴だんきん 一の友は酒
酒之与琴吾不知  酒と琴とわれ知らず
吾雖不知能得意  吾知らずといへども こころたり
既云得意無所疑  すでに意を得たりとふ 疑ふところ無し
酒何以成麹和水  酒は何をもつす かうぢ 水に和す
琴何以成桐播絲  琴は何を以て成す 桐 いとほどこ
不須一曲煩用手  もちゐず 一曲にわづらはしく手をもちゐることを
何必十分便開眉  何ぞ必ずしも 十分に便すなはち眉を開かん
雖然二者交情浅  しかりと雖ども 二つの者交情かうじやう浅し
好去我今苦拝辞  し去れ われ今 ねんごろ拝辞はいじ
詩友独留真死友  詩友は独りとどまる まことの死友
父祖子孫久要期  父祖子孫 久しく要期えうき
只嫌吟詠渉歌唱  ただきらふらくは 吟詠ぎむえいの歌唱にわたることを
不発于声心以思  声に発せず 心に以て思ふ
身多忌諱無新意  身に忌諱きき多くして 新意しんい
口有文章摘古詩  口に文章りて 古詩こしひろ
古詩何処閑抄出  古詩はいづれのところにかしづかに抄出する
官舎三間白茅茨  官舎は三間さんかん 白きかやいばら
開方雖窄南北定  はうを開くことせましと雖ども 南北定まれり
結宇雖疎戸〓宜  いへを結ぶことおろそかなりと雖ども 戸〓こいう よろ
自然屋有北窓在  自然おのづからおくに北窓の
適来良友穏相依  たまたま 来たりて 良友穏やかにあひ
無酒無琴何物足  酒も無く琴も無し 何物なにをかさん
紫燕之雛黄雀児  紫燕 しえんひな 黄雀くわうじやく
燕雀殊種遂生一  燕雀 種はことなれど 生をぐるはいつなり
雌雄擁護逓扶持  雌雄 しいう 擁護ようご して たがひに扶持ふぢ
馴狎焼香散華処  馴狎しゅんかふす 焼香散華さんげ ところ
不違念仏読経時  たがへず 念仏読経の時
応感不嫌又不厭  感ずべし 嫌はずまたいとはざることを
且知無害亦無機  つ知る 害も無くまたも無きことを
喃喃嘖嘖如含語  喃喃嘖嘖なんなんさくさくと語をふくむがごと
一蟲一粒不致飢  一蟲一粒いつちういつりふすら飢ゑをいたさず
彼是微禽我儒者  彼はこれびきん  我は儒者じゆしゃ
而我不如彼多慈  しかるに我は 彼がうつくしび多きにかず
尚書右丞旧提印  尚書右丞じやうじよいうじようは もと印を
吏部郎中新著緋  吏部郎中りほうらうちうは 新たにあけ
侍中含香忽下殿  侍中 しちうは 香を含めど たちまち殿をくだ
秀才翫筆尚垂帷  秀才しうさいは 筆をもてあそびて なほ とばり
自従勅使駆将去  勅使ちよくし 駆将かりて去りしより
父子一時五処離  父子 一時に五処に離る
口不能言眼中血  口に言ふことあたはず 眼中がんちうの血
俯仰天神与地祇  し仰ぐ 天神てんじん地祇ちぎ
東行西行雲眇眇  とざまに行き西かうざまに行き 雲眇眇はるばる
二月三月日遅遅  二月三月きさらぎやよひ 日遅遅うらうら
重関警固知聞断  重関ちようかん 警固けいご して 知聞 ちぶん断え
単寝辛酸夢見稀  単寝たんしん 辛酸しんさんにして 夢見ることまれなり
山河〓矣随行隔  山河〓矣はくい として行くにしたがひてへだ
風景黯然在路移  風景黯然あむぜんとして みちりて移る
平致謫所誰与食  たひらかに謫所たくしよいたるとも 誰とともにかまん
生及秋風定無衣  生きて秋風に及ぶとも さだめて衣もからん
古之三友一生楽  いにしへの三友は一生の楽しびなれど
今之三友一生悲  今の三友は一生の悲しみなり
古不同今今異古  古は今に同じからず 今は古に異なる
一悲一楽志所之  一は悲しび一は楽しむ こころざしくところなり

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解説

 昌泰しょうたい4(901)年、道真が大宰府にあって詠んだ古体詩です。大系本では「楽天『北窓三友』詩」という題ですが、谷口孝介氏が指摘されるように(「『菅家後集』と『白氏文集』と」「同志社国文学」61、2004年11月)、音声的な意味を持つ「詠」より「読」の方が適切だと思いますので、「読」の字を採用しておきます。
 題に示される通り、白居易はくきょいの「北窓の三友」という詩に題材を取っていますが、彼の言う「三友」すなわち琴・詩・酒の3点セットのうち、詩だけが人生の終着駅まで伴うべき存在だと認めざるを得なかった、痛ましい詩です。天神縁起にも「自従勅使駆将去」から「今之三友一生悲」までの14句が引用されています。

 1年半あまり後の延喜3(903)年初頭、道真は垂死の席にあって「自詠」から「謫居の春雪」に至る詩39首を撰び、『西府新詩』と題して参議・左大弁として都にあった親友紀長谷雄きのはせおの元に送るようことづけました。これを増補したのが現存する『菅家後集かんかこうしゅう』です。この詩は『西府新詩』の2首目に位置し、「自分は死ぬまで詩と向き合うのだ」という、毅然とした態度表明とも悲壮な覚悟ともとれる役割を果たしています。

 そして長谷雄は手元に届けられた詩巻を一読して天をふり仰ぎ、深いため息をつきました。
「大臣の詩想は素晴らしく、匹敵する者はいなかった。高官でありながら詩文を見捨てなかった。その作品は人口に膾炙し、後世、詩文を語ろうとすれば、彼の名を挙げぬ者はいないだろう……。」
 彼はそう言ったきり、唇を結びました。とは言え、かの蒼天に畏友を滅ぼされようとも、それから9年、延喜12(912)年3月に従三位中納言として薨じるまで、長谷雄は詩を捨てませんでした。彼の詩文集が『紀家集きかしゅう』ですが、大半は散逸して、延喜19(919)年に大江朝綱おおえのあさつなが書写した一巻が宮内庁書陵部に現存するのみです。それゆえ彼の作品を見ようとすると諸書に当たることになりますが、むしろ、三木雅博氏の『紀長谷雄漢詩文集並びに漢字索引』(和泉書院、1992年)に収められた原文と訓読が重宝します。

 白居易が太子賓客として東都洛陽にあった時期の作品をまとめたのが『洛中集』全10巻で、『白氏文集』の一部を成します。そのうちの一篇が「北窓の三友」です。
「嬉しいことに書斎で三友を得た。琴を弾き終えると酒盃を傾け、飲み終えれば詩を吟じ、繰り返して終わることがない。三友を偏愛するのは僕だけではなく、昔の人もそうだった。詩には陶潜、琴には栄啓期、酒には劉伶りゅうれいという先達がいる。彼らは琴を弾き、また盃を手に詩を詠じ、貧しいながらも道を楽しんだ。この三人は昔の人だから人柄を偲ぶ事とてできないが、三友とは日々親しくなる。左に玉で作った白い盃を投げ捨て、右に黄金づくりの琴柱を払いのけ、興が乗ったところで筆を走らせ、紙に詩を書きつける。……」
 原詩は五言十七韻からなる古体詩です。押韻は上平声四支韻と上平声五微韻。道真のこの詩は七言二十八韻ですから、字数も句数も異なりますが、やはり上平声四支韻と上平声五微韻で押韻しており、白詩を巧みに叩き台にしていることは疑いようがありません。もっとも、白居易の詩に外枠を借りながら、実際は意図的にズレを生じさせている点については、谷口氏の前掲論文で問題にされていることなのですが。
 そして「吾不知」「不知得意」「既云得意」と詞を畳み掛けながらも、讃岐にいた頃のように(『菅家文草』03:196「秋」を参照)、彼はやはり、酒と琴を突き放します。製法こそ諒解していても、その効用までは享受できない、形ばかりのつきあいしかできなかった彼等に、唐代俗語「好去(さよなら、お元気で)」の語でもって別れを告げました。ただ一人残された詩という最愛の友に向かい、道真は語り掛けます。
「君とは祖父以来の付き合いだよね、死ぬまで傍に居てくれないか?」
 しかし白居易のように、狂言綺語を人にもてばれるのは意に沿わぬことでした。
 人に踏み込まれぬよう、声に出さず、心の中で思いを述べようとしても、勅勘を被った身には詩想もわきません。そこで北向きの部屋に端座し、古人の詩句を口ずさみながら書きつけます。公務の合間を縫って自宅で文筆活動の一環として抜き書きを作っていたことを思い出しながら。

 幼い頃から当然のように囲まれてきた文字の海。その大海原を眺めていると、詩という友が寄り添うと感じる一瞬が、不意に訪れます。道真は「酒も琴もないから、燕と雀の雛でも友にしようか」と諧謔を込めて窓辺に訪れた小鳥に視線を向けます。焼香し読経する空間にお構いなしにやって来て、かまびすしくさえずっては懸命に子供に餌を運ぶ親鳥達。その光景を見ているうち、ある事実に思い至り、愕然とします。
「彼らはしょせん小鳥、仏道にとっては害悪にも機縁にもならないが、子への愛情の深さでは勝っているのではないか? 私は儒者のはずなのに……」

 道真の大宰府左遷が決まった2日後の昌泰4(901)年1月27日、関係者の処分が発表されました(『政事要略』巻22)が、官途に着いていた息子3人も累を免れませんでした。
 菅原高視たかみ は、大学頭だいがくのかみ右少弁うしょうべんから土佐介とさのすけへ。
 菅原景行かげゆきは、式部丞しきぶのじょう(式部省の三等官)から駿河権介するがのごんのすけへ。
 菅原兼茂かねしげは、蔵人くろうど右衛門尉えもんのじょうから飛騨権掾ひだのごんのじょうへ。
 そしてもう一人、道真が最も期待していたであろう文章得業生もんじょうとくごうしょう菅原淳茂あつしげも。
 ただ、淳茂がどうなったかは、実のところ良く分かりません。道真の口ぶりからすると、都に留め置かれたようにも受け取れますが、山崎まで父親と行動を共にしていたことは確かなので(「苦しい時の神頼み」曽根天満宮を参照)、都の外へ護送されたようなのです。口碑では播磨に流されたのだと言いますが、『大日本史料』にもそれらしい記事は見当たらず、播磨とする根拠が見出せておりません。もし初出を御存知の方がおられたら御教示願いたいと思う次第です。

 左遷を告げる宣命を勅使が読み上げてからというもの、親子はあっけなく離ればなれになってしまいました。その理不尽さを訴えようにも、天空はお構いなく春ののどけさを示すだけです。音信は絶え、夢の通い路も閉ざされたままです。息子を案じようにも、想像に任せるほかありません。無事に着いただろうか? 食事も一人で取るのだろうか? 元気でいるだろうか? 冬の衣装は? 手を差しのべるどころか、自分の存在ゆえに苦境に陥っているのだと分かっていればいるほど、自責の念が募ります。

 白居易が書斎の楽しみとした琴・詩・酒の三友。しかし道真が大宰府の地で見い出した燕・雀・詩という三友は、悲しみを呼び起こす存在でしかありませんでした。昔と今とは違うのだからと自分を納得させながらも、再び「詩は志のく所なり」という『詩経』大序の根本理念に立ちかえり、悲しみを詠うのも詩、楽しみを詠うのも詩なのだと述べて、道真は詩篇を結びました。「詩は王沢おうたく(君主の恩徳)と共にある」という政治的文学観の大原則から引き離された現状にあって、その言葉だけが、自分が詩を作ることの意義を示す、最後の砦だったからです。

 ところで「東行西行」以下の2句、本来なら、川口久雄が形容詞の語幹で終わることに疑問を呈した(大系本補注727頁)ごとく、
  東行西行とうかうせいかう 雲眇眇べうべうたり
  二月三月じげつさんげつ 日遅遅ちちたり
と訓読したいところ。しかし、この箇所に関しては『江談抄ごうだんしょう』(巻4:66)に以下のような話があります。

菅原氏の人の妻が、北野天満宮に参詣してこの詩を詠じたところ、天神は「とざまにゆきこうざまにゆき、くもはるばる、きさらぎやよい、ひうらうら」と詠じるべきだと御教示されたという。

 この話は説話文学の代表作『今昔こんじゃく物語集』(巻24:28)にも見え、「誰もこの詩の読みを知らなかった」「(社頭で詠じた人物の)夢枕に気高い人(=天神)が立って『そなたはどう読むのか知っておるのか?』と問うたので、『知りません』と答えた」「このように天神は詩の読みを御教示されることが多かったそうだ」などの補足説明がなされ、もう少し分かりやすくなっています。
 研究者以下、現代の私達もこの詠みに従っているということは、いまだに天神の呪縛から抜け出せていないことに他なりません。ただ、家族を理不尽な形で引き裂かれた苦痛について述べる、そのさなかに挿入された2句が持つのどかさを強調するには、漢音より和訓の方がふさわしくはないでしょうか。

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口語訳

白居易はくきょいの「書斎の三つの友」の詩を読む〈七言〉

白居易の『洛中集らくちゅうしゅう』十巻
(その)中に「書斎の三つの友」の詩がある
(彼は言う)一つの友とは琴の演奏 (またもう)一つの友とは酒と
私は酒と琴には詳しくない
(だが)詳しくないとは言っても 理解はしている
もとより理解していることは 疑うべくもない
酒はどのようにして作るのか こうじを水に混ぜ(て作)る
琴はどのようにして作るのか 桐に糸を張(って作)る
わざわざ(琴相手に)手を使って一曲を弾こうとは思わない
目一杯(酒を飲んだところで) 容易にのびのびとした気分になれようか
されど 両者とはさほど親しくない
さよなら! 私は今 (君達とは)慇懃いんぎんにおいとまを告げよう
(すると)詩という(もう一つの)友だけが残る (彼こそが)死ぬまで付き合う本当の友だ
(我が家は)先祖代々 長らく(詩を作るという)約束を守ってきた
ただ疎ましいのは (その詩が白居易の詩のように世間の人に)広く口ずさまれ歌われること
(そこで)声に出さず 心の中で思う
身にははばかることが多く 新たな詩興も湧かない
文章を口ずさんで 古人の詩を拾い集める
古人の詩をどこで静かに抜き出すのかというと
柱三間にして白いかやといばらを葺いた(貧相な)公舎
方形の土地は狭いが (建物は)南北きちんと配置されている
粗末な屋敷ながら 戸口も窓も揃っている
家には運良く北向きの書斎もある
(書斎にいれば)時折(詩という)良き友が穏やかに(我が身に)寄り添ってくれる
(だが詩が訪れたところで)酒もなく琴もなければ 何を(両者の代わりに)加えようか
(それは)燕の雛と雀の子
燕と雀は 種は異なるが 生命を全うするという点では同じである
両親は (子供達を)守り お互いに支えあっている
(彼等は私が)焼香し散華する場所に慣れ親しみ
念仏し読経する時を間違えずにやって来る
感心しなければならない (彼等が勤行ごんぎょうの場や時を)嫌ったり飽きたりしないことを
(しかし)また分かっている (仏道にとって)害悪にもならず機縁にもならないと
(その鳴き声は)ピーピーチュンチュンと話し合っているようだ
虫一匹 穀物一粒でさえ(子供達を)飢えさせることはない
彼等は小鳥 私は儒者
それなのに私は 慈愛に満ちた彼等に劣る
右少弁うしょうべん高視たかみ )は 昔(文章得業生もんじょうとくごうしょうだった時に三河掾みかわのじょうとして地方の)官職に就いた(ように土佐介とさのすけとなった)
式部丞しきぶのじょう景行かげゆき)は 新たに五位の位を与えられ(ながら駿河権介するがのごんのすけに任じられ)た
蔵人くろうど兼茂かねしげ)は 帝の御前にはべりながら (飛騨権掾ひだのごんのじょうに任じられて)すぐ殿上を辞した
文章得業生(淳茂あつしげ)は いまだ部屋にこもって勉学にいそしんでいる
勅使ちょくしが 追い立てて退しりぞけてから
父と子が 一度に五箇所に離ればなれになった
(苦しみを)言葉にすることも出来ず 血の涙を流すばかり
伏して仰ぐは 天の神と地の神
あちらへ行きこちらへ行き 雲は遥か(に流れ)
如月弥生と (春の)日はのどか(に照る)
幾重にも守りを固められ 消息も絶えた
独り寝は辛く 夢を見ることもまれである
(故郷の)山や川は遠く遥かに 進むにつれて離ればなれになる
(道中の)景色は薄暗く 道すがら移り変わる
無事に左遷先にたどり着いても (子供達は)誰と食事をともにするのか
秋風が吹く頃まで生きることが出来ても (彼等に綿の入った)衣装はきっとないだろう
昔の(白居易にとっての琴・酒・詩という)三つの友は一生の楽しみだったが
今の(私にとっての燕・雀・詩という)三つの友は一生の悲しみだ
昔は今と同じではなく 今は昔と異なる
悲しんだり楽しんだりするのは (詩が)こころざしのおもむくものであるからだ

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