山陰亭

 菅原道真が北野に祭られるにいたった歴史的経過について、なるべく簡潔かつ明快にまとめてみました。

 菅原道真が大宰府で客死したのは延喜3(903)年のことですが、その後左遷に荷担したと思われる公卿が次々と亡くなります。延喜6(906)年大納言藤原定国さだくに(41歳)、延喜8(908)年参議藤原菅根すがね (53歳)、延喜9(909)年左大臣藤原時平(39歳)、延喜13(913)年右大臣源ひかる(69歳・事故死)といった具合に。
 当初道真の祟りとは考えられていなかったようですが、水面下でささやかれ始めた噂も、延喜23(923)年皇太子保明やすあきら親王が21歳で急死したことで表面化。左遷時の詔書を破棄して右大臣に戻し、改めて正二位を贈り、年号も道真左遷を追認する「延喜」(「開元の詔書を読む」を参照)から醍醐天皇本人の選んだ(『西宮記』改年号)「延長」に改められます。

天皇家略系図(2KB)
天皇家略系図

 そこまでして皇太子に据えた孫の慶頼よしより王も、2年後の延長3(925)年わずか5歳で死去。醍醐天皇が心理的に追い込まれていく中、延長8(930)年6月26日、会議中の清涼殿に雷が落ち、大納言藤原清貫きよつら以下死傷者5名を出す大惨事が起こりました。居合わせた天皇も病床につき、3ケ月後に皇太子寛明ひろあきら親王に譲位した後に崩御してしまいました。46歳。

 天慶2(939)年、関東で桓武平氏一族の内紛に端を発する反乱が起こります。平将門による天慶の乱のことですが、関東各国の支配権を奪い、託宣を受けて「新皇」と称しました。反乱を正当化する託宣をもたらしたのは、王権を支えながらも多分に反逆的な性格を持つ八幡神であり、支持したのが道真の怨霊でした。
 天慶4(941)年には、修験道の聖地である吉野金峰山で修行していた道賢どうけんという僧侶が、地主神蔵王権現ざおうごんげんの導きで太政威徳天だじょういとくてんに転生した道真に面会し、「相次ぐ災害は我が眷属が引き起こしたものであり、己を祭れば逃れられる」と教えられます。さらに地獄に堕ちた醍醐天皇とも会い、追善供養を行うよう朱雀天皇への伝言を託されました。

 ところで、平安前期は御霊会ごりょうえの盛んな時代でもありました。「さまざまな災害の原因は政争の犠牲者による祟りであり、鎮めるには彼等を祭らなければならない」という発想のもと民間で始められたのですが、同時に政争を引き起こした為政者への批判でもありました。すでに道真の生前に政府主催で御霊会が執り行われているように、いずれは為政者側へ取り込まれてしまいますが、やはり道真の神格化も庶民のレベルから始まります。延喜5(905)年、道真の従者味酒安行が大宰府で祭ったのがその最初と言われます。
 『扶桑略記』などを見ると、時平が死んだあたりから、日食・月食・彗星・落雷・地震・旱魃・洪水・火事・伝染病の流行といった記事が毎年のように目立つようになります。これらの現象が道真の祟りだと噂されていたのは想像に難くありません。

 そんな中、天慶5(942)年、西京七条に住む多治比文子たじひのあやこ(綾子とも)の夢枕に道真の霊が立ち、北野の右近馬場に祭るよう求めました。北野は道真の生前から雷公が祭られていた地でもあります。しかし身分の低さゆえ、彼女は自宅に祠を建てただけでした。
 そして天慶8(945)年、志多羅神しだらしんという疫神を乗せた神輿が民衆によって西から送られるという騒動がありました。結局は入京せずに洛南の石清水八幡宮いわしみずはちまんぐうに吸収されたのですが、そのうちの一基は「文江自在天神」を祭るものでした。
 天慶9(946)年、道真の霊が近江比良宮の神官神良種みわのよしたねの息子太郎丸の夢枕に現れ、再度右近馬場に祭るよう告げたので、文子らと協力して右近馬場に祭りました。そして翌年、天然痘が猛威を振うなか、現在地に北野天満宮が創建されました。
 さらに時の為政者である藤原師輔もろすけが社殿を増築し、摂関家の守護神とした次第です。

 これで道真の御霊は沈静化したかに見えましたが、そうではありませんでした。半世紀が経過した正暦4(993)年、道真は正一位左大臣を追贈されましたが、その背景には天然痘の流行がありました。しかも託宣により贈官を拒まれたので、朝廷は太政大臣を追贈します。また、清涼殿が被災した6月26日は、後々まで貴族達にとってことのほか落雷を恐れる日であったようです。

 元来、「北野」は平安京の北方を総称する言葉に過ぎません。しかしその一部である右近馬場がことさらに天満宮の社地として選ばれた背景には、雷公を祭る地だったことに加え、右近馬場と大内裏の位置関係もあるようです。大内裏の西北の隅は、北野天満宮の少し南にありました。大内裏でも平安京でも、四方の隅は疫病が侵入する場所と見なされ、阻止するために祭祀が行われる場所でした。その名残りが天満宮に程近い大将軍八神社です。
 振り返れば、貞観5(863)年に初めて朝廷が御霊会を主催した時、会場となった神泉苑は大内裏の東南隅に接していました。この場合と同様に、疫病をもたらす怨霊を封じるために、大内裏の隅が選ばれたようなのです。大将軍は金星を神格化した道教の神ですが、難波宮の西北に祭られた大将軍社を吸収・発展させたのが大阪天満宮であることも、注意しておきたいところです。

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