山陰亭

 日本三大祭と言えば京都の祇園祭・大阪の天神祭・東京の神田祭。揃いも揃って御霊系の神社の祭りですが、天神祭は大阪天満宮で扱いましたので、ここでは祇園祭を取り上げたいと思います。

斜め後ろから見た霰天神山(5KB)
斜め後ろから見た霰天神山

 祇園祭は八坂神社(京都市東山区)の祭りです。祭神の牛頭天王ごずてんのう はインドにあった祇園精舎ぎおんしょうじゃという寺院を守護する神様ですが、日本では疫病をもたらす荒ぶる神とされ、出雲で八岐大蛇やまたのおろちを退治した素戔鳴尊すさのおのみことと習合しています。
 一夜の宿を求めて断られた素戔鳴尊を、蘇民将来そみんしょうらいだけは快く迎え入れました。その後、再び蘇民将来の元を訪れた素戔鳴尊は、目印としての輪を腰に下げるよう教えました。するとその夜、疫病が蔓延し、宿を提供しなかった人々は犠牲になりましたが、蘇民将来一家だけは助かりました。以来、疫病を避けるために茅の輪で護符を作るようになった、そういう話が『備後国風土記』の逸文に残っています。
 この八坂神社、貞観18(876)年に藤原基経が創建したとも言われますが、基経は貞観5(863)年に神泉苑しんせんえんで開かれた御霊会ごりょうえの総責任者をつとめているだけに、さして不自然ではない話です。

宵山の油天神山(5KB)
宵山の油天神山

 現在のように飾り立てた山や鉾を巡行させる形になったのは室町時代ですが、その中に、油天神山・あられ天神山という2つの山があります。そこでカメラ片手に見物してきましたが、タペストリーや人形など、飾り物の数々は会所に展示しており、山の方は、外枠こそ組んでいたものの、提灯を全身にぶら下げただけの状態で、今一つ個々の違いが分かりにくいものでした。せいぜい提灯に北野天満宮系のシンプルな梅鉢紋が入っている位のものでしょうか。他の山鉾のようにお囃子の実演がある訳でもありませんし。

 昼間だけでは飽き足らず、混雑に巻き込まれるのを覚悟して宵山に繰り出しました。山鉾の密集する四条通と烏丸通はさすがに大勢の人で賑わっていましたが、四条通が歩行者天国になっていたこともあって、スムーズに移動できました。一方通行の規制がかかるために時折回り道を強いられたものの、飛地のように一つだけ離れた場所にある保昌山を含め、一晩で8割方の山鉾を見ることができました。

油天神山の祠(7KB)
油天神山の祠

 油天神山は火尊天満宮を勧請したもので、油小路通にあるためにこう呼ばれます。火尊天満宮は会所の少し北にありますが、境内を伴わない、大きな祠といった感じの神社でした。
 巡行時には、天神像を安置した祠に紅梅の造花を飾り、朱色の鳥居ごと山に載せてしまいます。左右両側に掛けるタペストリーは、天神さんらしく紅白梅を描いたものです。

霰天神山の天神像(4KB)
霰天神山の天神像

 霰天神山は16世紀初頭に大火災が起こった時、突然降ってきた霰で火が消えたので、一緒に降ってきた小さな天神像を祭ったのが始まりです。
 近所にある、鰻の寝床そのものの町家が会所になっており、油天神山と同様に鳥居つきの祠が安置されています。それとは別に、金色の幣を従えた厨子に天神の木像が収められていたので写真に収めましたが、天から降ってきたのは1寸2分(3.6cm)のミニサイズだったそうですから、御神体とは別物かも知れません。と言いますか、祠に収まらない大きさだと思います、この厨子。

 他にも関連する人物が登場する山がありますので、御紹介しておきましょう。

白楽天山の白居易と道林禅師の人形(8KB)
白楽天山の白居易と道林禅師の人形

 まずは白楽天はくらくてん山。白楽天すなわち白居易はくきょいは平安文学に多大な影響を与えた唐の詩人ですが、以後の文芸世界でもよく知られた人物だったようで、能楽「白楽天」の主人公でもあります。この山は、白居易が道林禅師に仏法の大意を尋ねるさまをモチーフにしたもの。向かって左が白居易で、右が道林禅師です。
 囃子といい山車といい、伊賀上野の天神祭は祇園祭に似ていますが、こちらにも白居易が登場します。白楽天山と同じく、白い服をまとい、狂言「唐人相撲」の皇帝のような冠をかぶっています。

山伏山の浄蔵人形(6KB)
山伏山の浄蔵人形

 そして山伏やまぶし山。下から読んでも山伏山。それはともかく、この山伏、実は浄蔵じょうぞうという僧侶です。三善清行みよしのきよゆきの息子で、音楽や医道にも精通していたという多芸な人物ですが、若い頃、道真の霊に抗議されて祈祷を中止したばっかりに藤原時平を死に至らしめたため(吉祥院天満宮を参照)、天神縁起ではおなじみの人物です。
 村上天皇の日記にも死者を蘇生させるスペシャリストとして出てきますが(『大鏡』裏書)、一条戻橋で父親を7日間だけ生き返らせたとも言われます。その浄蔵がなぜ「山伏」なのかと言いますと、熊野や吉野金峰山で修行した修験者しゅげんじゃだったからで、八坂神社の近くにあった「疫伏社」の別名が「山伏宮」であり、彼を祭っていたそうです(南里みち子氏『怨霊と修験の説話』)。

 まとめにアドバイス。予め京阪電鉄・阪急電鉄あたりの広報紙やチラシで山鉾の位置を確認し、歩くルートを決めておいた方がいいと思います。一筆書きで道筋を決めても、見る数を減らしても、混雑する時間帯を避けても、かなり歩きますから、はっきり言って体力勝負です。最低限、足元はウォーキングシューズで固めておきましょう。いっそのこと、四条通でカフェに入り、たっぷり休憩をとった方が良いのかも知れません。

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