山陰亭

原文解説口語訳

『菅家文草』02:140/『扶桑集』07:001

傷藤進士、呈東閤諸執事  藤進士とうしんじいたみ、東閤とうかふ諸執事しよしつじてい

我等曾為白首期  我等はかつ白首はくしゆの期を
何因一夕苦相思  何にりてか 一夕いつせき はなはあひ思はん
披書未巻同居処  書をひらきて巻かず きよを同じくせしところ
捻薬空帰已葬時  薬をつまみてむなしく帰る すではうむりし時
不校秋声喪父哭  秋の声に父をうしなひてこくせしにくらべずとも
猶勝暁涙夢児悲  なほ まさる あかつきの涙にを夢みて悲しぶには
〈余、先皆所有。  〈われ、先に皆有りし所なり。
 今、而喩之。〉   今、しかうしてたとふ。〉
此生永断倶言笑  の生 ながつ とも言笑げんせうすることを
且泣将吟事母詩  つ泣きてぎんぜんとす 母につかふる詩を
〈東閤孝経竟宴、  〈東閤とうかふ孝経かうきやう竟宴きやうえんにて、
 進士事母之詩。   進士しんじ が母につかふるの詩あり。
 故云。〉      ゆゑふ。〉

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解説

 元慶がんぎょう8(884)年、道真40歳の時、一人の文章生もんじょうしょうが死亡しました。彼は関白太政大臣かんぱくだじょうだいじん藤原基経もとつねに恩顧を受けたとはいえ、菅根すがね (式家)同様、藤原氏でも傍流の人物かと思われますが、志半ばにして倒れた悲運に対して感慨を禁じ得なかったようで、関係者に書き送ったのがこの詩です。

 都良香みやこのよしかが元慶3(879)年2月に亡くなってから、道真の請願により(『菅家文草』09:597「文章博士一員の闕を補せられ、共に雑務を済はんことを請ふの状」)この年の5月にようやく右大弁うだいべん広相ひろみ が文章博士を兼任し、欠員状態は解消しました。それまで丸5年もの間道真は一人で文章博士の地位にあったので、指導教官として藤進士に接していたことと思われます。さらに、この年の2月に光孝こうこう天皇が即位するにあたり、道真は典儀てんぎ の役を務めましたが、終了後に所感を送ったのも同じ人物であったようです(02:127「典儀、礼畢りて、藤進士に簡す」)。

 文才に優れた彼とは、生涯付き合うことになるとばかり道真は思っていました。ところが、突然訃報が届き、事態が飲み込めぬまま葬式が終わってみると、彼の机の上には書物が開かれたままになっています。学生のまま生涯を終えた彼の存在は、父親よりは軽いものの、息子よりは重いように思われました。
 父是善これよしが69歳で亡くなったのは4年前の8月30日。まさに仲秋のことでした。それに対し、息子阿満が7歳で夭折したのは昨年のこと。その死に臨んで道真が追悼する詩を詠んだのは、「菅外史」(『菅家文草』01:047)・「安才子」(01:072「安才子を傷む」)・「巨三郎(巨勢親王?)」(02:086)・「菅侍医」(02:096)・文章博士某氏(04:246)・島田忠臣ただおみ(05:347「田詩伯を哭す」)・良臣よしおみ(02:093)兄弟・藤原滋実しげざね(『菅家後集』486「奥州藤使君を哭す」)・本康もとやす親王(496「吏部王を哭し奉る」)・小野美材よしき (502「野大夫を傷む」)と他にも大勢の人物を数えることができますが、「阿満を夢む」(『菅家文草』02:117)は十四韻もの七言排律詩(詩本体のみで196字)であり、比較的長いものに属します。夏になっても夢に見るのが悩みの種だと嘆いているので(02:122「夏日偶興」)、阿満にはよほど将来を期待していたようですが、それでも藤進士の死よりは軽い、と言い切ります。それだけ彼は優秀な生徒だったのでしょう。

 遺作となったのは先だって東閤とうこうで行われた『孝経』竟宴きょうえんでのものでした。『孝経』は儒教のテキストの一つ。孔安国こうあんこく(古文孝経)や鄭玄じょうげんが注をつけたものもありますが、政界の第一人者たる藤原基経もとつねの邸(おそらく堀河院)という場所を考慮すると、玄宗げんそう皇帝の手による『御注孝経』が用いられたと想像できます。これが当時最も公的なものだったからです。
 その講義が終了し、竟宴(打ち上げ)が開かれました。テキストの一節が詩題として各自に割り当てられ、道真も七言律詩(02:146)を賦しました。藤進士には母に仕えるという主題が与えられたのですが、いざ取り出してみて、孝養を尽くし切れないまま果てた彼の遺作を口ずさむと、やり切れない思いにかられるのでした。

 ところで、『孝経』竟宴詩は02:146、この詩は02:140と、作品番号が逆転していますが、これは詩と詩序は年次別に配列することを原則とする『菅家文草』に錯綜があることを示すものです。『菅家後集』674「家集を献ずる状」に述べるように、讃岐に赴任する間に自身の原稿が雨漏りで破損し、人から控えを入手して『菅家文草』編集の材料とした経緯があり、このような混乱は十分起こりうるものなのです。

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口語訳

文章生もんじょうしょう藤原君(の死)を悼み、東閤とうこうの事務官諸氏に差し上げる

私達は 昔 白髪になるまでの友情を誓った
(それなのに)どうして 今宵は ひどく彼のことを想うのだろうか
書籍は開いたまま巻かれることもない (彼と)一緒に過ごした場所で
薬を手になす術もなく帰った すでに(彼を)葬った時に
秋に父を亡くして 慟哭どうこくしたこととは比べようがないが
それでも 明け方に死んだ子を夢に見て泣いたことよりは辛い
〈(これらは)私が、先立って経験したことである。
 今こうして(彼の死に)たとえた。〉
今生こんじょうでは 一緒に談笑する機会もなくなってしまった
泣きながら吟じようと思う 母に仕える詩を
〈東閤での孝経こうきょう竟宴きょうえんで、
 彼は母に仕える(ことを主題にした)詩を詠んだ。
 そこでこう言うのである。〉

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