山陰亭

長尾天満宮(5KB)
長尾天満宮

所在地:京都市伏見区醍醐赤間南裏町
 交通:京都市営地下鉄・醍醐駅下車

煩雑で親切な指南醍醐寺を拝観醍醐天皇と山科・醍醐

煩雑で親切な指南

(傾向)かなり奇妙な指示です。
(対策)とりあえず従って正解。

 醍醐寺に隣接する神社ですので、とりあえず醍醐寺を目指しましょう。

 改札で入手した京都市交通局の観光地図「地下鉄沿線エリアマップ」のアドバイスに従い、2番出口から出て隣接する商業施設・パセオダイゴローに入ります。2階に上がり、出入口を抜け、中央を走る歩行者専用道路へ。駅前を一般道が走っているだけに、なぜこのようなまどろっこしい行程をたどるのか良く分からなかったのですが、左側を見下ろせばすぐ納得できます。これから向かう東方向は極度の急勾配なんです。
 そして足元の緩やかな坂道は団地へと続きます。少なからず気が引ける行程ですが、建物が縦に積み上げられるようにして並ぶ坂道を登るのに比べれば、すこぶる楽です。途中で左折して集会場の前を通り過ぎ、一般道に合流します。右折して東へ直進し、高架下をくぐれば醍醐寺の総門に到着します。さらに奥へ進めば仁王門です。

 仁王門の手前で左折し、少し北上した先に石鳥居があります。しばらく歩き、次の鳥居の向こうにあるのは延々と続く階段。普通はここでしり込みするところですが、与喜天満宮のことを思えば恐れるに足りません。階段を登り終えると、左が平らな土地になっています。石製の臥牛の奥に神楽殿があり、その先に小さな社殿が建っています。さすがに社務所は閉まっていました。
 絵馬の図柄ですが、お宮参り用の張り子の犬、七五三用の貴族の子供たちの他、学業祈願用に五歳菅公像もありました。ただ、どの絵馬も神社名がゴム印で押してあったので、汎用品なのかも知れません。

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醍醐寺を拝観

(傾向)そう言えば、ここは真言宗の寺院でした。
(対策)夏場は日傘と水筒が必須アイテム。

 醍醐寺は9世紀半ばに山上の上醍醐、10世紀前半にふもとの下醍醐が開かれており、2つのエリアに分かれます。上醍醐へは山道を1時間以上歩かなければなりませんが、西国巡礼の旅ではないので、さすがに遠慮して下醍醐周辺の見学だけに。

 仁王門の手前には、左に三宝院、右に霊宝館があります。いずれも有料。桃山時代の建築が好きな方には三宝院はお勧めでしょうが、庭園より仏像を見ようと思い、霊宝館へ寄りました。しかし平安時代の仏像はともかく特集展示の内容にさほどそそられず、仁王門に戻ります。

醍醐寺金堂(5KB)
醍醐寺金堂

 通常は無料ですが、金堂(国宝)が公開中の時期なので、拝観料を払って仁王門の奥に入ります。
 まずは金堂の中へ。本尊の薬師如来に日光菩薩・月光菩薩の両脇侍、脇を固めるのは四天王。中心の3体は鎌倉時代に製作された重要文化財ですが、座っている場所から距離があるせいか、予想した程のインパクトはありません。霊宝館を選択した方が賢明だったかもしれません。同じ鎌倉彫刻でも、肖像の方が相性が良いのかとも思いましたが、三十三間堂(京都市東山区)に立ち並ぶ大勢の千手観音像は気に入っていたりします。

醍醐寺五重塔(4KB)
醍醐寺五重塔

 五重塔(国宝)は、京都に現存する最古の建築物ですが、10世紀半ば、醍醐天皇の冥福を祈って息子である朱雀 すざく天皇・村上天皇の兄弟が建てたものです。内部に描かれた両界曼荼羅や真言八祖図は、色彩の残存状況も良く素晴らしいと聞いていますが、さすがに非公開扱いになっているようで、拝観は叶わず。美術鑑賞が目的なら、博物館の特別展を狙った方が良いのかも知れませんね。

 あとはしばらく境内を散策。他にも池や建物がありますので、眺めながら歩きます。下醍醐だけでもかなり広く、上醍醐へ向けて緩やかな上り坂になっています。これは散策と言うよりウォーキングでしょう。花の季節に仲間を募り、わいわい言いながら山登り、そんな楽しみ方が似合う寺院です。

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醍醐天皇と山科・醍醐

(傾向)醍醐天皇が「醍醐」天皇なのはしかるべき理由があるのです。
(対策)歴史も同時代人の目からは偶然。

 本当の楽しさを指す「醍醐味だいごみ」という言葉は、元々乳製品の中で最も美味なものを意味する仏教語ですが、醍醐寺を開いた僧聖宝しょうぼうが山上の湧水を「醍醐味」と評したことから、この山が「醍醐」と呼ばれるようになりました。そしてその名を冠する歴史上の人物が。そう、醍醐天皇(885〜930)です。

 この地には宮道みやじ 氏という豪族が住んでおり、藤原高藤たかふじ(藤原基経の従兄弟)が鷹狩でこの地を訪れた際、宇治郡司であった宮道弥益みやじのみちますの邸に泊まりました。接待に当たったのは娘の列子で、彼女はそのまま高藤と夜を過ごしました。二人の関係はそれきりで終わりましたが、何年かして高藤が訪れたところ、列子は娘を産んでいました。この娘が藤原胤子で、後に定省さだみ 王と結婚し、源維城これき を産みました。
 ここまでは公達のささやかな恋愛譚ですが、問題はその後。臣籍に下ったはずの定省が、突如天皇となったのです。その後の維城少年については「右丞相の献ぜし家集を見る」に書いた通り、改名・立太子を経て、13歳で即位します。彼こそが醍醐天皇ですが、幼少時に亡くなった母を供養するため、彼女の生まれた宮道弥益の邸を寺としました。これが勧修寺かじゅうじで、地下鉄小野駅の近く、醍醐寺の西北約1.2kmにあります。近くには宮道氏の祖先神や醍醐天皇の祖先を祀る宮道神社もあります。

勧修寺(左)と宮道神社(右)(7KB)
勧修寺(左)と宮道神社(右)

 摂政・関白を置かず親政を行ったことから、醍醐天皇の治世は、年号を取って「延喜の」と呼ばれます。ただこの言葉は、初の勅撰和歌集『古今こきん 和歌集』や法令集『延喜格式きゃくしき』を編纂させたことなど、文化政策に対する評価であり、摂関制が定着した後世において、中下級貴族が天皇親政の時代を回顧する表現に過ぎません。藤原時平が健在だった頃はともかく、その弟忠平の時代になってからは、律令制再建の動きも途絶え、朝廷が地方行政に積極的に関与することもなくなったのが、残念ながら実状のようです。
 そして天皇は、中年になってから、若い頃に道真を左遷したことを後悔する不幸に見舞われます(「人が神になる日」を参照)。近親者の死、そして清涼殿せいりょうでん落雷。精神的なショックで倒れた天皇は、当時流行していたインフルエンザに感染し、回復の見込みがないことを悟って譲位を決めました。そして病床に臥せたまま出家したのですが、その日に崩御します。
 後を継いだ朱雀天皇はまだ少年だったので、藤原忠平ただひらが摂政となり、父基経もとつねが亡くなって以来約40年ぶりに摂関制が復活しました。朱雀天皇は同母兄保明やすあきら親王が急逝した直後に生まれたので、3歳になるまでしとみ(雨戸)を下ろしたまま密閉空間の中で育てられたそうですから、「北野の御歎き」(『大鏡』時平伝)恐るべしといったところです。

醍醐天皇陵(8KB)
醍醐天皇陵

 醍醐天皇の遺体は、母の生まれ故郷に埋葬されることになりました。その陵は醍醐寺の北にある前方後円墳です。「○○天皇」という名前、つまり諡号しごう は崩御の後に奉られるものですが、今回「醍醐」が選ばれたのは、埋葬地に関連してのことでしょう。近年宅地開発が進められた地域だけに、現在は堀の手前に道路が走り、道路に面して民家が続いています。住宅地に天皇陵があるのは珍しい光景ですね。
 なお、崩御の後、清涼殿は一部取り壊されましたが、村上天皇の時に分解して醍醐寺に運ばれ、法華三昧堂の資材として転用されたようです(新日本古典文学大系『江談抄 中外抄 富家語』108頁脚注)。

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