山陰亭

原文解説口語訳

『菅家後集』500

雨夜〈十四韻〉  雨の夜〈十四韻〉

春夜漏非長  春夜 ろう 長きに非ず
春雨気応暖  春雨 気 暖かなるべし
自然多愁者  自然おのづからにうれへ多きひと
時令如乖狠  時令 じれいそむもとれるがごと
心寒雨又寒  心寒ければ雨も又寒し
不眠夜不短  眠らざれば夜も短からず
失膏槁我骨  あぶらを失ひて 我が骨をらす
添涙渋吾眼  涙を添へて が眼をしぶかす
脚気与瘡癢  脚気かつけ 瘡癢さうやう
垂陰身遍満  かげりて 身にあまねく満つ
不啻取諸身  ただ これを身に取るのみならず
屋漏無蓋板  おくさへ漏りて おほふ板も無し
架上湿衣裳  架上かしやうに 衣裳を湿うるほ
篋中損書簡  篋中けふちうに 書簡をそこな
況復廚児訴  況復いはんや 廚児ちゆじ の訴ふるや
竈頭爨煙断  竈頭さうとう爨煙さんえん断えにたりと
農夫喜有餘  農夫 喜びあまり有るに
遷客甚煩懣  遷客 はなは煩懣はんもん
煩懣結胸腸  煩懣 胸とはらわたむすぼれ
起飲茶一盞  起きて飲む 茶一盞いつさん
飲了未消磨  飲みをはれども消磨せうま せざれば
焼石温胃管  石を焼きて胃管をあたた
此治遂無験  の治 つひしるし無ければ
強傾酒半盞  ひて傾く 酒半盞はんさん
且念瑠璃光  瑠璃光るりくわうを念じ
念念投丹款  念念ねんねん 丹款たんくわんとう
天道之運人  天道の人をうごかすこと
不一其平坦  いつ平坦へいたんならず

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解説

 延喜2(902)年春、大宰府で暮らし始めてから2年目を迎える時期に作られた詩です。題を「夜雨、古調十四韻〈五言〉」とするテキストもある通り、古調詩です。
 押韻は上声一三阮韻・上声一四旱韻・上声一五潸韻。3種類あるのは、隣接する韻目いんもく(韻字のグループ)なら通用するためです。ただ、韻字は平声を用いるのが普通で、仄声で押韻するケースは、02:118「詩情怨」(入声九屑韻)・04:292「日の長きに苦しむ」(入声一四緝韻)・481「九月九日、口号」(去声二一箇韻)・483「少き男女を慰む」(去声六御韻)・486「奥州藤使君を哭す」(上声四紙韻)・490「雪の夜、家なる竹を思ふ」(入声九屑韻)など、全作品の約2%しかありません。
 二四不同を守らないのは7回(第3句・第12句・第14句・第16句・第20句・第22句・第27句)、仄三連そくさんれんは2回(第6句・第24句)です。

 短い春の夜、穏やかに雨が降ります。ところが、道真には長い夜に降る冷たい雨としか感じられませんでした。思い悩むあまり眠れぬ日々を過ごす身には、雨、しかも夜中の雨はさらに気分を沈ませるだけだったのです。しかも58年の年月を重ねた身体はやつれ、眼は霞みます。
 この時道真が苦しめられた脚気とできものは、昔からの持病でした。12年前の寛平2(890)年、任期満了に伴って讃岐から帰り、自宅で療養していた時の詩によれば、足にお灸を据え、頭にできものができていたことが分かりますが(04:325「病に依りて閑居し、聊か懐ふ所を述べ、大学士に寄せ奉る」)、そこでも「地方暮らしの苦労で持病が悪化した」と言っています。さらに大宰府では肉体の衰えと心労が加わり、不眠症・胸焼け・胃のむかつき・手足が思うように動かないなどの身体症状となって現れました。寝返りを打つうちに夜が更け(『菅家後集』503「秋の夜」)、燈が消えるまで書を読み耽り(508・509「燈滅ゆ、二絶」)、長い長い夜を過ごしたのです。

 『菅家後集』には484「こころぶ、一百韻」という、一千字もの長篇詩が収められています。この詩と重なる記述もありますので必要に応じて取り上げますが、その中に自らを羊と雀になぞらえた一節があります。

 羊は足が動かない上に繋がれている、雀はできものに加えて手が動かない。
 しかし垣根の外を望み、こっそり戸口を歩く。

 動かない手で書き綴ったことばの重みについて、不意にぎくりとさせられた箇所ですが、詩作と仏教でどうにか気力を保っていたことは確かなようです。

 雨の被害は身の回りにも及びます。破損した屋根は修理せずに放置されたままなので、掛けてあった服もしまっておいた手紙も濡れてしまいました。鎌倉時代の承久本「北野天神縁起」において、その建物はこけらぶきの屋根につたが延びる姿で描かれるように、道真が住んだ「南館」(現在の榎社)は廃屋同前のあばら屋であるという暗黙の了解があります。実際、「意を叙ぶ、一百韻」でも建物や庭の荒廃ぶりに言及しており、長い間使われていなかったことだけは確かなようですが、考古学の見地からすれば、メーンストリート沿いで水はけの良い一等地だったそうですから、文学的誇張まで鵜呑みにすることは避けたいものです。

 この詩について、川口久雄は大系本の頭注で「陰惨深刻な詩」と評していますが、必ずしもそうとは言い切れません。「雨の寒暖も夜の長短も心次第」「被害を受けたのは体だけではない」「百姓は雨が降って喜んでいるのに」「酒を無理にあおる」といった口ぶりは、自分の身に降り掛かった悲惨な事態をどこか客観的に見ているように思えます。しかも、炊事ができないのを雨漏りのせいにしていますが、本当は食料事情そのものがあまり良くなかったようなのです(507「風雨」参照)。その事実を伏せて雨のせいにしたところに、奇妙な明るさがあります。

 豊作の源である雨を待ち望む農民をよそに、雨の音を聞きながらひとり苦しむ道真は、消化器の不調に耐えかね、横たえていた体を起こします。そして、茶を飲み、焼いた石を懐炉代わりに懐に入れ、ろくに飲めない酒をうっぷん晴らしにあおり、何とか症状を抑えつけようとしますが、いっこうに効果がありません。そこで『薬師経』を唱え、薬師如来に救済を求めます。
 道真は昔から仏教に帰依していましたが、延喜改元詔書において大罪人と名指しされ(479「開元の詔書を読む」を参照)、帰京の望みを断たれてからというもの、重陽も正月も関係なく仏道修行を続けていました(481「九月九日の口号」・494「歳日の感懐」を参照)。次第に精進生活に入っていったことは「意を叙ぶ、一百韻」でも窺えますが、果たして極楽往生を目的としたものと単純に理解して良いか、迷うところです。極楽往生を司るのは薬師如来ではなく阿弥陀如来だからです。
 『菅家文草』の願文を読むと、『阿弥陀経』を書写したり(12:655・12:657)、阿弥陀如来像を造ったり(12:658)しているので、平安貴族が阿弥陀如来を信仰する兆しが既に見られます。しかしいずれも故人の追善供養のためであって、自分の来世を願ったものではありません。また道真自身が阿弥陀如来を礼拝したのも、やはり知人の死を受けてのものでした(『菅家文草』01:072「安才子を傷ぶ」・02:093「兵部侍郎(島田忠臣)が『舎弟大夫(忠臣の弟、良臣)を哭す』の作に和し奉る」)。島田忠臣が阿弥陀来迎図を前に自身の極楽往生について言及しているので(『田氏家集』01:063)全く違うという訳ではないのですが、道真の場合、この世を穢れた世界として厭い、阿弥陀如来に極楽浄土へ導かれることを自ら希求する平安中期の考え方とは若干異なっていると考えざるを得ません。

 『菅家後集』の詩において、道真は仏に自分の苦しみを除いて欲しいと述べます(491「寺鍾を聴く」・506「晩に東山の遠寺を望む」)。災いからの救済を司る観世音菩薩に帰依していた事を考えあわせると、最期まで生きることに固執した道真が望んだのは、苦しい現実からの脱却だったのではないでしょうか。最終句の「天は随分人に波乱含みの人生を歩ませるものだ」という苦々しい響きにも、病身を抱えて苦悶する日々からどうにか救われたい気持ちが反映しており、やはり現世での救済を願ったものと思われます。

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口語訳

雨の夜〈十四韻〉

春の夜は 時間が 長いのではない
春の雨は 時節柄 暖かいはずだ
(だが)おのずと愁いの勝る者には
時候も(摂理に)背を向けねじけてしまったようだ
心が寒いと(暖かい春の)雨もまた寒く(感じられ)
眠らないと(短い春の)夜も短くない(ように思われる)
脂肪をなくして わが骨を枯らし
涙を加えて わが眼を鈍らせる
脚気とできものと
陰の気をもたらして (症状が)体中に満ちあふれる
ただ(自分の)身について(述べる)だけではない
屋根まで雨漏りして 覆い隠す板もない
衣掛けの上では (雨が)衣服を濡らし
箱の中では (雨が)手紙を破損する
まして 炊事係の訴えることには
かまどのあたりに飯を炊く煙が絶えてしまいました(雨漏りで炊事もできません)と
農民は(雨が降って)大喜びしているのに
左遷された旅人は ひどく煩悶はんもん(思いわずらうこと)している
煩悶は胸と腸に凝集し
(苦しいので)起き上がって一杯の茶を飲む
飲み終えても(苦しみが)なくならないので
石を焼いて(懐に入れ)胃を温める
この治療法 結局は効果がないので
無理にあおったのは 盃半分の酒
また薬師如来を思い
片時も 真心を尽くす
(それにしても)天の人の動かし方は
本当に平らかではない

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