小中学生のみなさん、こんにちは! 百太夫です。これから「菅原道真の登場と失脚」のお話をしますね。難しい話もありますけど、かなり詳しくお話ししますから、がんばって聞いてください。
道真は845年生まれなので、今から1100年ほど前、平安時代前期の人です。名字を「菅原」に変えたのはひいおじいさんの時なんですけど、その頃から、おじいさん・お父さんと代々学者を出してたんです。だから道真も小さいころから勉強して学者になったというわけ。初めて漢詩(中国語の詩)を作ったの、11歳なんですよ、すごいでしょ? だから学問の神様なんですよ、ふふっ。
さて、888年に「阿衡の紛議」という事件が起こります。藤原基経が「政治をとるのは関白である私です」と、宇多天皇にはっきり見せつけた出来事だったんですけど、この時香川県にいた道真が基経に手紙を送って彼をいさめているんです。こんなことやってたら藤原氏の名前に傷がつきますよ、って。
891年に基経が亡くなり、息子の藤原時平がまだ若いこともあって、宇多天皇は自分で政治をとるようになるんですが、右腕に道真を選んだんですね。時平に対抗させる目的で。それからは出世街道まっしぐら。
ところで、894年に遣唐使の派遣が中止されたのは有名な話ですね。「今までにも大勢の人が遭難した」「唐の国内も乱れている」「新羅の海賊が九州北部に出没している」「遣唐使を出すほど予算がない」「外国から商人がひんぱんに船で来るので、わざわざ遣唐使を送る必要がない」「肩書を増やすためで、最初から行く予定はなかった」など、理由はいろいろ挙げられていますが、本当のところはいまだによく分からないんです。
それはさておき、他の人を飛び越えて急激に出世したものですから、政治家からも学者からも、相当反感を買ったみたいです。897年、宇多天皇が天皇の位を息子の醍醐天皇に譲りますが、その時も「『時平と道真だけで政治を行え』と宇多上皇がおっしゃいましたから」と、他の貴族が仕事をしなくなったという騒動もありました。
結局、901年、道真は右大臣から大宰権帥に左遷され、
東風吹かばにほひをこせよ梅の花 主なしとて春を忘るな
という有名な歌を残し、都を後にしました。
醍醐天皇を廃して弟の斉世親王を天皇にしようとしたのが左遷の理由とされますが、この話がどこまで本当なのかは今となっては分かりません。ただ言えるのは、醍醐天皇や左大臣時平以下の貴族たちにとって、宇多上皇や道真はうるさい存在だったということです。
大宰権帥は、大宰府という福岡県にあった役所の副長官なんですが、道真の場合は肩書きだけで、仕事も大した給料もなく食事にも事欠くありさまでした。漢詩を作り仏に帰依する生活の中、903年2月25日、帰京の日が来るのを待ち望みながら59歳で亡くなりました。
ところが、その後、時平を含めた貴族たちはおろか、皇太子まで亡くなってしまいます。さらに会議中の清涼殿に雷が落ち、死傷者を出すにいたって、これは道真のたたりに違いない、と雷と結びつけて祭られるようになったのでした。
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