中途送春 中途にて春を送る
〈以下二首、 〈以下の二首は、
行路之作。〉 行路の作なり。〉
春送客行客送春 春は
傷懐四十二年人
思家涙落書斎旧 家を思はば涙落つ 書斎は
在路愁生野草新 路に在らば愁ひ生ずれど 野草は新たなり
花為随時餘色尽 花は時に随ふ
鳥如知意晩啼頻 鳥は
風光今日東帰去 風光 今日東に帰り去る
一両心情且附陳 一両の心情
仁和2(886)年3月、道真はいよいよ讃岐へ向かいます。その旅の途中で春の最後の日である3月30日を迎え、感慨をうたった詩です。
おのずと移り行く季節の流れをことさらに3月の最終日で区切り、寂しさを凝縮して強調するのは白居易の影響です。日本では『
暦は3月末、花は散り、鶯は年老いる。去りゆく春を惜しむことは、自身がまた歳を重ねたことを意識させられることでもあります。その認識は白居易の「強いて来たり
またも来 む時ぞと思へど 頼まれぬ我が身にしあれば 惜しくもあるかな
(春はまた来ると思っても 当てにならぬ我が身ゆえ 春の終わりが名残り惜しく思われるよ)
(『和漢朗詠集』巻上・春・三月尽)
に明らかなごとく、生きて次の春を迎えられるか分からないという寂寞とした感情を催させるものでした。
なお、「三月尽」に関する論文については、『本朝無題詩全注釈』巻4・235の語釈で本間洋一氏がまとめて紹介していますが、菅野禮行氏の「「春尽」の詩」(「静岡大学教育学部研究報告 人文・社会科学篇」35、1985年3月、加筆して『平安初期における日本漢詩の比較文学的研究』に収録)も挙げておきましょう。
このテーマを最初に扱った日本人は島田忠臣ですが(『田氏家集』01:031)、その指導を受けた道真も、過ぎゆく春を歌います。文章得業生だった頃、忠臣と同席して詠んだ「晩春、同門会飲し、庭上の残華を
春尽に胸を痛める自らを「四十二年の人」と年齢で定義するのは、上述の白居易の「四十六」を踏まえたものでしょう。題に「以下の二首は、行路の作なり」とあるのは、『菅家文草』編纂時の追記ですが、作詩事情を追記するのは、白居易のスタイルに倣っています(後藤昭雄氏「漢詩文家としての道真」「国文学解釈と鑑賞」67-4、2002年4月)。そして主のいない書斎はこのまま朽ちてしまうのかと恐れ、沈んだ気持ちとは裏腹に道端には新芽が芽吹いています。言うまでもなく書斎は学者の拠点ですが、実際、留守中にこの書斎は雨漏りの被害に遭いました(『菅家後集』674「家集を献ずる状」)。時節に従って花はしおれ、鳥は春を惜しむように鳴きます。暦の日付けという観念的な分岐点に留まらず、視覚・聴覚の双方で春の終わりを実感した後、擬人化した自然に対し、都へ自分の気持ちを伝えて欲しいと願います。東とのみ言い、都とは明言しないながらも、西から東へ「過ぎ去る」はずの季節を「帰り去る」と表現したところに、望京の思いが表れているようです。
ところで、第1句で「春が旅人を見送り、旅人が春を見送る」と視点を逆転させていますが、「客行」はあくまでも「旅」そのものであって、「客」や「旅人」ではありません。逆転して「行客」とすれば意味が通りますが、二四不同二六対の原則に反します。ここでポイントとなるのは、主客を転倒させた表現構造ではなく、実は「春送客行客送春」という対称的な文字配列です。これがもし「春送旅人客送春」とでもあれば、面白味は半減したでしょう。同じ文字をわざと繰り返すのは道真が得意とした手法です(02:118「詩情怨」の「去歳世驚」「今年人謗」もその一例)。平安前期は漢文を読み下さずに上から下へ「音読み」していましたが(湯沢質幸氏『古代日本人と外国語』勉誠出版、2001年)、道真もやはり漢音直読派だったような気がします。
(赴任の)途中に春を見送る
〈以下の二首は、
道すがらの作である。〉
春は旅(人)を見送り 旅人は春を見送る
(過ぎゆく春の風景を見て)胸を痛めるのは 四十二歳のこの私
家のことを思えば涙がこぼれる 書斎は古びてしまうのかと
路上にいれば(私には)憂いが生じるが (初夏を前に)野辺の草は鮮やかだ
花は(移ろう)時に従うがゆえ 色香も失せ
鳥は(我が)心の内を知っているかのように 頻りに鳴く
(春の)景色は 今日東へ去ってしまう
(東方の都へ向け)ひとつふたつ心情を ひとまず(春に)ことづけて述べたいものだ