小男阿視、留在東京。 小男
写送田大夫 田大夫が
「禁中瞿麦花三十韻」詩云、 「禁中の
「此詩也、応詔作之。 「
時人重之。故奉之。」。 時人重んぜり。
予、吟之翫之、 予、吟じて
不知其足。
仍製一篇、続于詩草、
云爾。
家児不問老江濆 家児は
只報相如遇好文
三百真珠無趾至 三百の真珠
九重嘉草有名聞
詩尋此地凌蒼海 詩は
花託何人種白雲 花は
菅〓若応添雨露
吐華将奉聖明君
寛平元(889)年の秋、讃岐の道真のもとに息子から手紙が届きました。「阿視」は当時14歳の少年だった
わざわざ三百字もの長篇を書き送ったところを見ると、高視は忠臣の孫だったのではないかと思われますが、世間の評判以上に道真が関心を寄せたのは、第2句で忠臣を
年中行事の宴席でもないのに文人を呼んで詩を作らせる帝なら、自分も目を掛けられるかもしれない。道真はそう期待し、最終2句で雨露に濡れる植物にこと寄せて自らも恩恵に浴したいと希望を述べます。
「雨露」に「天子の恩」の意味を込めるのは道真に限ったことではなく、白居易にも見られる表現です(小野泰央氏「平安朝の公宴詩における述懐について」「国語と国文学」74-9、1997年9月)。
もちろん「菅」は植物ですが、「遠客の光栄 自らに近郊/
息子阿視は、(父親に同行せず)左京に残っていた。
(そして)島田(忠臣)殿の
「宮中の
「この詩は、(帝の)詔に応じて作ったものです。
今の人は(この詩を)
私は、(この詩を)詠じて愛でたが、
飽き足らなかった。
そこで(詩)一篇を作り、(忠臣殿の)詩稿に続ける、
という次第。
息子は(父が)川辺で年老いることについてはねぎらうことなく
ただ(本朝の)司馬相如(とも言うべき人)が学問を好む帝に遇ったことだけを知らせてきた
三百字の真珠は 足もなく(讃岐まで)やって来て
宮中の名草は 名声あって(遠方に)伝わった
詩はこの地を尋ねて青い海を渡ったが
(撫子の)花は誰にことづけて 白い雲に植えさせようか(花ばかりは届けようがない)
もし
花を咲かせて 聡明な天子に捧げたいものだ(一所懸命にお仕えしよう)