読開元詔書〈五言〉 開元の詔書を読む〈五言〉
開元黄紙詔 開元の黄紙の詔
延喜及蒼生 延喜は蒼生に及ぶ
一為辛酉歳 一つは辛酉の歳の為なり
一為老人星 一つは老人星の為なり
大辟以下罪 大辟以下の罪
蕩滌天下清 蕩滌して天下清し
省徭優壮力 徭を省きて壮力を優し
賜物恤頽齢 物を賜ひて頽齢を恤れむ
茫茫恩徳海 茫茫たる恩徳の海
独有鯨鯢横 独り鯨鯢の横ふる有り
〈具見于詔書。〉 〈具さに詔書に見ゆ。〉
此魚何在此 此の魚 何ぞ此に在らん
人道汝新名 人は道ふ 汝が新しき名と
呑舟非我口 舟を呑むは我が口に非ず
吐浪非我声 浪を吐くは我が声に非ず
哀哉放逐者 哀しきかな 放逐せらるる者
蹉〓喪精霊 蹉〓として精霊を喪へり
昌泰4(901)年7月15日、年号が「延喜」と改められました。その詔書を大宰府の地で読み、感慨を記した古調詩です。
「詩中民生に言及することの多いことは、かれの政治家としての感覚が、なお健全であったことを示すものである」(坂本太郎『菅原道真』)という評がありますが、そう読むよりは、「詔書に見ゆ」と自注するように、詔書の内容はもちろん、措辞そのものもふんだんに取り込んだ詩と理解した方が良さそうです。新年号の「延喜」、詔書の逸文に見える「辛酉(歳)」「老人(星)」、恩赦を行う際の常套句である「大辟以下」は容易に想像がつきますが、「開元」「蒼生」「蕩滌」なども詔勅に用いられる用語なんです。
道真が読んだこの詔書は、現在「去歳の秋、老人は寿昌の耀きを垂れ、今年の暦、辛酉は革命の符を呈す。」(『大日本史料』延喜元年七月十五日条所収『革命』)という部分しか残っていません。つまり、天下安泰を示す老人星(竜骨座のアルファ星カノープス)が前年秋に出現し、今年は天命が改まる辛酉の年だということが、改元の理由として記されていたわけですが、『扶桑略記』は「逆臣並びに辛酉革命に依る」と説明しており、それを裏付けるのがこの詩です。
「辛酉革命」は文章博士であった三善清行が積極的に主張した説で、特に道真左遷の約一ケ月後(2月22日)に朝廷に提出した「革命勘文」(『群書類従』第26輯)に詳しく述べられています。これは史料操作まで行って辛酉革命説による改元の必要性を述べたものですが、その理由として「辛酉革命」「彗星」「老人星」を挙げた後、辛酉革命とは無関係な「称徳天皇が天平神護と改元した(765年1月7日)」ことを取り上げます。「逆臣」藤原仲麻呂を誅滅したことが天平神護改元の理由であると清行は見なしており、道真は反逆者仲麻呂と同一視されていたわけです。左大臣藤原時平あての書状(『本朝文粋』07:188「左丞相に奉る書」)の中で、清行が道真を「悪逆の主」と呼んでいるのも、これで納得できます。
結果、清行の意見が採用される形で改元が行われ、左大弁紀長谷雄の選んだ「延喜」が新年号となりました。
逆臣仲麻呂を念頭に置いて記された詔書の中で、自らを怪魚「鯨鯢」と名指しされた道真は、左思「呉都賦」(『文選』巻五)の「長鯨は航を呑み、脩鯢は浪を吐く」の句によって、「舟を呑むは我が口に非ず 浪を吐くは我が声に非ず」と反論します。しかし改元に伴う恩赦に漏れた身では「鯨魚は流れを失ひて蹉〓たり」(『文選』巻二・張衡「西京賦」)を意識して詩を結ぶ位のことしかできないのでした。
改元の詔書を読む〈五言〉
改元を記した黄色の詔書
延喜の年号が民衆に行き渡る
改元は今年が辛酉の年のためであり
昨年老人星が出現したためである
死刑以下の罪を
洗い清めて国中がすがすがしい
労役を軽減して若者をいたわり
物を与えて老人に情けをかける
はるかに広がる恩徳の海に
一匹の鯨が泳いでいる
〈これらの言葉はすべて詔書に見える。〉
この魚はどうしてここにいるのだろう
人は言う お前の新しい名前だと
船を飲み込むのは私の口ではない
波を吐き出すのは私の声ではない
悲しいことよ 追放された者は
志を得ないまま心をなくしてしまった
http://michiza.net/jcp/jcpkb479.shtml