傷野大夫〈古調七言五韻〉 野大夫を傷む〈古調七言五韻〉
我今遠傷野大夫 我 今遠く野大夫を傷む
不親不疎不門徒 親しきにもあらず 疎きにもあらず 門徒にもあらず
聞昔老農歎農廃 聞く 昔老農の農廃れしを歎きしを
詩人亦歎道荒蕪 詩人も亦歎く 道の荒蕪することを
沈思雖非入神妙 沈思は神妙に入るに非ずと雖ども
如大夫者二三無 大夫の如き者は二三も無からん
紀相公応煩劇務 紀相公は劇務に煩ふべく
自餘時輩惣鴻儒 自餘の時輩は惣て鴻儒なり
況復真行草書勢 況復んや 真行草の書の勢ひ
絶而不継痛哉乎 絶えて継がず 痛ましきかな
延喜2(902)年、小野篁の孫であった大内記小野美材が亡くなりました。その訃報を受け、道真が詠んだのがこの詩です。
美材の文才を物語るエピソードとして、藤原実資の日記『小右記』(寛仁3年4月24日条)の記述は非常に信憑性の高いものです。
寛仁3(1019)年、新羅の賊が大宰府に襲来した刀伊の入寇という事件が起こりました。この時、大納言実資が偶然入手したのが、寛平6(894)年に小野美材が起草した宣命でした。
1世紀以上も前に同様の事件があった際に出された実物を、実資は権大納言源俊賢を通じて摂政藤原頼通とその父行観(道長)に見せ、また文章の主旨がいかに素晴らしいか伝えるべく、権大納言藤原公任にも書写して送りました。すると公任からは、「美材の文章は群を抜いている、そのことについては菅家の集を御覧下さい」と、表現の華麗さにのみ着目した返事が返ってきました。当時の政府の対応に関心を寄せていた実資にすれば、それは唖然とさせられる反応だったようです。
そして公任が見るように言った「菅家集」とは、この詩を指します。
美材は寛平4(892)年に道真を試験官として方略試を受験し、合格しました。この組み合わせは、道真が式部少輔を兼任していたことによるかと思われますが、道真は蔵人頭から台閣へ、美材が地方官を経て中務省勤務へ、という離れた経歴をたどっているので、深い交流はありませんでした。門下生でなければなおさらです。にも関わらず西の彼方で追悼せずにいられなかったのは、彼が数少ない「詩人」であった、この一事に尽きます。紀長谷雄の「『延喜以後の詩』序」にも詳しいので、あわせて見てゆきましょう。
寛平3(891)年、宇多天皇は宮中で七夕の宴を開きました。この時、美材はまだ文章得業生だったにも関わらず、道真や長谷雄(文章博士)を差し置いて詩序を書く大役を任された(『本朝文粋』巻8)ことは、彼に対する評価が高かったことを物語ります。
道真が「沈思は神妙に入るに非ず」、長谷雄が「興を託すること幽ならず」と評した通り、その詩は奥深さを欠いていました。しかし、島田忠臣や高岳五常が没し、道真が左遷され、儒者ばかりが溢れる現状では、美材は希少な存在でした。美材が亡くなれば、残るは長谷雄ただひとり。しかし彼が参議・左大弁として本職に忙殺されていることは想像するまでもありません。
「ここに詩道は荒廃した」、嘆きの言葉が道真の認識でした。
また同時に、美材は当時を代表する能書家でもありました。醍醐天皇の大嘗会に際し、屏風を書いたことはその一端です(『帝王編年記』)。楷・行・草の三体に通じた彼の技量に至っては誰も継承していない、それも道真を嘆かせるには十分でした。
翌年に『西府新詩』を道真から託されたのは他ならぬ長谷雄ですが、所伝を裏付けるように、「『延喜以後の詩』序」において、「丞相遷所に在りて、遥かに内史を哭し、兼ねて文章の已に絶えぬることを歎く」と、この詩を引いています。そこには、
紀相公独煩劇務 紀相公は独り劇務に煩ひ
自餘時輩尽鴻儒 自餘の時輩は尽く鴻儒なり
と若干字句の相違を認められます。「独」だと二四不同二六対の原則に反しますが、古調詩という性質上、全体を通じて同様の箇所が他にも見受けられますので、どちらが正しいとまでは決められないようです。
小野美材君を悼む〈古調詩七言五韻〉
私は今 遠く大宰府の地で小野君の死を悼んでいる
彼とは 親しくもなく 疎遠でもなく 同門の出でもない
昔 老いた農民が農業が廃れてしまったと歎くのを聞いたことがあるが
詩人である私もまた歎くのだ 詩の道が荒れ果てたことを
君の詩に込められた思いは(浅くて)神業の域に入るとは言えないが
君のように詩人と呼べる人はまずいないだろう
参議紀(長谷雄)氏は激務に追われて詩を作る余裕もないだろうし
他の今の人々は知識ばかりで詩とは縁遠い学者ばかり
ましてや(能書で知られた君の)楷書・行書・草書といった筆跡は
絶えてしまって継ぐ者もいない 悲しいことだ
http://michiza.net/jcp/jcpkb502.shtml