山陰亭

原文解説口語訳

『菅家文草』11:650

吉祥院法華会願文     吉祥院法華会願文きつしやういんほつけえがんもん
〈元慶五年十月廿一日〉  〈元慶五年十月廿一日〉

弟子            弟子ていし
従五位上式部少輔      従五位上式部少輔しきぶのせう
菅原朝臣敬白。       菅原朝臣すがはらのあそん うやまひてまうす。
吉祥院建立之縁、      吉祥院建立のえん
「最勝会願文」叙之詳矣。  「最勝会さいしようえ願文」にべしことつまびらかなり。

伏惟、           伏しておもんみるに、
弟子慈親伴氏、       弟子が慈親 じしん伴氏ばんし
去貞観十四年正月十四日、  んぬる貞観ぢやうぐわん十四年正月十四日、
奄然過去。         奄然えんぜんとして過去くわこ せり。
及至周忌、         周忌に至るに及び、
先考、奉写         先考せんかう
『法華経』一部八巻・    『法華経』一部八巻・
『普賢観経』        『普賢観経』
『無量義経』各一巻・    『無量義経』各一巻・
『般若心経』一巻。     『般若心経』一巻を写したてまつれり。
時也此院未立。       時やの院立たず。
便於弥勒寺講堂、      便すなは弥勒寺みろくじの講堂において、
略             ほぼ
説大乗之妙趣、       大乗だいじようの妙趣をき、
引長逝之尊霊。       長逝ちやうせいの尊霊を引く。
弟子、           弟子、
位望猶微、心申事屈。    位望 ゐばう なほにして、心はぶるも事は屈す。
泣血而已、更無所営。    泣血きふけつするのみにして、さらいとなむ所無し。

又、先妣亡去之日、     また先妣せんぴ 亡去の日、
誡弟子曰、         弟子をいましめてのたまはく、
「汝幼稚之齢、       「なんぢ幼稚のよはひに、
 得病危困。         病を得て危困せり。
 余心、不堪哀愍之深、    が心、哀愍あいびんの深きにへず、
 発奉造観音像之願。     観音像をつくり奉る願をほつす。
 念彼観音力、        の観音力を念ずれば、
 汝病得除愈。        汝が病除愈ぢよゆ し得たり。
 自汝有禄、割其上分、    汝禄有るにより、の上分を割き、
 分寸相累、用度可支。    分寸ふんすん 相累あひかさね、用度ようど 支ふべし。 
 発願之本、雖在汝身、    発願ほつがんもと、汝が身にりといへども、
 懈緩之責、恐為余累。」   懈緩けくわんせめ、余がわづらひらんことを恐る。」と。
弟子、           弟子、
自奉遺命三四年来、     遺命いみやうたてまつりてより三四年このかた
雕飾纔成、         雕飾てうしよく わづかにれども、
礼供猶闕。         礼供れいぐ けり。

自後、           自後、
朝恩不遺、         朝恩わすれず、
官爵過分。         官爵分に過ぐ。
即作念曰、         すなはおもひつくりていはく、
「所得禄俸、先資報恩、   「る所の禄俸ろくほう報恩ほうおんせんとし、
 報恩之後、当以遊費。」   報恩の後、遊費に以てすべし。」と。
爰、            ここに、
損節経用、弁設禅供。    経用けいよう損節そんせちし、禅供ぜんく 弁設べんせつせんとす。
至元慶三年夏末、      元慶ぐわんぎやう三年の夏の末に至り、
風月之下、定省之間、    風月のもと定省ていせいの間、
以斯一念、略達先考。    の一念を以て、ほぼ先考に達す。
先考曰、          先考のたまはく、
「善哉、汝作是言。     「きかな、汝のの言をすや。
 余建一禅院、        余一禅院を建て、
 当講二部経。        二部経を講ずべし。
 最勝妙典、         最勝さいしよう妙典めうてん
 依余発願、先年講畢。    余が発願にり、先年講をはれり。
 法華大乗、         法華ほつけ の大乗、
 寄汝報恩、当共随喜。    汝が報恩に寄せ、共に随喜ずいき すべし。
 唯念、           ただ おもふらくは、
 懸車已迫、死門在前。    懸車けんしや すでに迫り、死門 しもん前に在らんことを。
 須待明年、豫帰田舎、    明年を待ち、あらかじめ田舎に帰るべく、
 帰去之次、将聴妙理。    帰去のついでに、妙理めうり を聴かんとす。
 聴妙理、已将結因縁、    妙理を聴き、もつて因縁を結ばんとし、
 結因縁、已余無後累。    因縁を結び、已て余が後累こうるい無し。
 又、余家吉祥悔過、     又、余が家の吉祥悔過きちじやうけくわ
 久用孟冬十月。       久しく孟冬まうとう十月を用ひたり。
 法会之期、宜取彼節。」   法会のとき、彼の節を取るべし。」と。
弟子、           弟子、
敬奉慈誨、不敢軽慢。    敬ひて慈誨じくわいを奉り、へて軽慢けいまんせざりき。

於是、           於是ここに
日輪不駐、         日輪とどまらず、
星律已廻。         星律すでめぐれり。
二月下旬、弟子始嘗薬、   二月下旬、弟子始めて薬をめ、
仲秋晦日、先考遂就薨。   仲秋晦日、先考つひこうけり。
遺誡之中、更無他事。    遺誡 ゐかいうちさらに他事無かりき。
唯有十月悔過不可失堕而已。 ただ十月の悔過失堕しつついすべからざることのみ有り。

今、            今、
八月既過、父服先除、    八月既に過ぐれば、父が服先にのぞけるも、
正月未来、母忌猶遠。    正月来らざれば、母が忌猶遠し。
起廿一日、         廿一日に起こし、
至廿四日、         廿四日に至るまで、
礼拝禅衆、         禅衆ぜんしゆ礼拝らいはいし、
開批法筵。         法筵ほふえん開批かいひ せんとす。
所仰者、新成観音像、    仰ぐ所は、新成の観音像、
所説者、旧写法華経。    説く所は、旧写の法華経。
始謂、就冥報以共利存亡、  始めおもへらくは、冥報みやうほうに就きて以て共に存亡そんばうを利せんとするも、
今願、仮善功而同導考妣。  今願はくは、善功ぜんく りてとも考妣かうひ を導きたまはんことを。

嗟呼、           嗟呼ああ
先考、所誡弟子不失者、   先考、弟子の失はざるをいましめし所は、
今日開会之朝、       今日開会のあしたなり、
弟子、所奉先考相違者、   弟子、先考の相たがへるを奉りし所は、
去年薨逝之夕。       去年薨逝のゆふべなり。
弟子、           弟子、
無父何恃、         父無く何をかたのまん、
無母何怙。         母無く何をかたのまん。
不怨天、          天を怨まず、
不尤人。          人をとがめず。
身之数奇、         身の数奇すうき にして、
夙為孤露。         つと孤露ころと為りぬ。
南無観世音菩薩、      南無観世音菩薩、
南無妙法蓮華経、      南無妙法蓮華経、
如所説、          説きし所のごとく、
如所誓、          誓ひし所の如く、
引導弟子之考妣、      弟子の考妣を引導し、
速證大菩提果。       すみやかに大菩提果をしようしたまへ。
無辺功徳、         無辺の功徳 くどく
無量善根、         無量の善根ぜんこん
普施法界、         あまね法界ほつかいほどこし、
皆共利益。         皆利益 りやくを共にせん。

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解説

 元慶5(881)年11月21日から24日にかけて、37歳の道真が氏寺の吉祥院きっしょういんにおいて『法華経ほけきょう』(正式名称は『妙法蓮華経みょうほうれんげきょう』)を講じた時の願文です。全8巻を1巻ずつに分け、朝夕2回4日間かけて講じる「法華八講ほっけはっこう」の形で開催されました。
 願文は各種法要での主催者の願いを述べるための文体で、法要の場で僧侶によって読まれます。名文家が執筆し、能書家が清書するものとされ、その実例は、空海『性霊集しょうりょうしゅう』・『本朝文粋ほんちょうもんずい』・『本朝続文粋』・大江匡房『江都督納言ごうととくなごん願文集』・『朝野群載ちょうやぐんさい』・宗性編『願文集』などに収録されています。
 道真が執筆したものは33篇あり、『菅家文草』巻11・12に収録されています。内容でみると、以下の8種類に分類できます。なお、「逆修ぎゃくしゅ」は生前に自分の追善供養を行うこと、「施入せにゅう」は財産を寄進することです。

四十九日法要(3篇)11:646・11:652・12:660
一周忌法要(9篇)11:637〜11:640・11:651・12:653・12:655・12:657・12:666
追善供養(3篇)11:641・11:642・12:658
逆修(2篇)11:647・12:654
長寿を願う(6篇)11:636・11:643・11:648・12:658(再掲)・12:662・12:665
功徳を修す(7篇)11:647(再掲)・11:649・11:650・12:656・12:659・12:661・12:664
施入・喜捨(4篇)11:644・11:645・12:667・12:668
放生(1篇)12:663

 道真は四十九日法要が3篇・一周忌法要が10篇ですが、『本朝文粋』の場合、全27篇のうち四十九日法要が14篇・一周忌法要が1篇と逆転しています。『本朝文粋』が執筆の参考になる詩文を選択・集成した書籍であるという点を考慮しても、この不均等ぶりは少々気になるところです。

 『菅家文草』の場合、題の下に道真自身が製作時期を記しているため、すべて製作年代順に配列していることが容易に判明しますが、うち1篇は自注に誤りがあり、実際の製作時期とはずれが生じています。それは「清和女御源氏(源済子)の為に、功徳を修する願文」(12:661)です。自注では仁和2(886)年11月27日作ですが、本文中に「父帝が崩御されてから29年が経った」という記述があり、父文徳もんとく天皇が崩御したのが天安2(858)年8月27日(『文徳実録』同日条)であることから計算すると、29年後の仁和3(887)年の作であるはずです。大系本では、源済子の祖母が亡くなったのは「去夏」(12:660によると仁和2年5月29日)だから翌年の作だ、と判断されていますが、「去夏」は必ずしも「昨年の夏」を意味するのではなく、「過ぎ去った夏」を指し、今年の夏でも該当しますから、やはり本文から逆算するのが正攻法のようです。

 32篇は他の人のために代作したもので、唯一自分のために書いたのが今回の願文です。
 吉祥院は平安京の南郊にありました。延暦23(804)年に道真の祖父清公が遣唐判官けんとうのじょうとして唐に渡った際、吉祥天きちじょうてん(衆生に福徳を与えるとされる仏教の女神)の加護により遭難の危機を脱したので、帰国後に自宅で吉祥天を祀ったのが始まりとされます。建立の経緯については、是善が「最勝会願文」に詳述しましたが、残念ながら現存していないので、内容を確かめることはできません。しかしこの願文を読むと、清公が吉祥院を創設したという所伝は、必ずしも正しくないことが分かります。
 「時や此の院立たず」とある通り、是善が妻の一周忌法要を行った貞観15(873)年の時点において、吉祥院はまだ建立されておらず、少なくとも寺院として整備されていなかったのは確かです。2年後の貞観17(875)年、道真は吉祥院の鐘に鋳込むための銘(『菅家文草』07:521)を書いており、この頃ようやく造営が開始されたと思われます。さらに3年が経過した元慶2(878)年以前に完成し、『最勝王経さいしょうおうきょう』(正式名称は『金光明最勝王経こんこうみょうさいしょうおうきょう』、別名は『金光明経』)の法会が開かれました。
 是善の言う「一禅院」は吉祥院を指しますが、吉祥院は貞観年間の末に是善が創建した寺院であることを、この願文は示しているのです。

 なお、『扶桑略記ふそうりゃっき』は、『吉祥院供養記』からの引用として「元慶5年11月22日に道真が吉祥院を供養した」と記しますが(同日条)、以上に述べたことから誤りであることが分かります。少なくとも、原文の「供養吉祥院」は「供養吉祥院」とあるべきところでしょう。また、法華会ほっけえを1日繰り下げて開催したように書いていますが、『法華経』を供養するには最低でも4日は必要なので、やはり21日から4日間という『菅家文草』の記述に問題はなく、『吉祥院供養記』はいささか正確さを書くようです。

 長い文章ですので、読み進める前に、内容を年表形式で整理しておきます。一周忌法要の日程については、他の周忌法要願文から判断するに、必ずしも命日に合わせて行うわけではないようですので、月のみの記載となっています。

貞観14(872)年1月14日伴氏逝去
貞観15(873)年1月是善、弥勒寺で伴氏の一周忌法要を行う
貞観17(875)年道真、吉祥院の鐘銘を書く=吉祥院建立開始?
元慶2(878)年是善、吉祥院で『最勝王経』の講筵を開く
元慶3(879)年6月道真、観音像供養の意思を是善に伝える
元慶4(880)年2月下旬是善、病床に臥す
元慶4(880)年8月30日是善逝去
元慶5(881)年10月21日吉祥院で『法華経』の講筵を開く

 道真の母は大伴おおとも氏の出身です。弘仁こうにん14(823)年、淳和じゅんな天皇のいみな(本名)が大伴親王であったことを憚り、大伴氏は「大」の字を削ってとも氏と称しました(『日本紀略』弘仁14年4月壬子条)。古代以来の軍事貴族であり、奈良時代には万葉歌人大伴旅人たびと 家持やかもち親子を輩出した名門ですが、天平宝字てんぴょうほうじ元(757)年の橘奈良麻呂たちばなのならまろの変・延暦えんりゃく4(785)年の藤原種継たねつぐ暗殺・承和じょうわ9(842)年の承和の変・貞観8(866)年の応天門の変と、反乱に加担し、あるいは政変に巻き込まれ、没落する一方でした。
 そのような時代の中で、是善の妻となり一子を儲けた彼女は、貞観14年1月14日に急死しました。道真28歳の時のことです。この時、道真は正六位上で少内記しょうないき存問渤海客使そんもんぼっかいきゃくしに任じられていたに過ぎず、身分も低く給与も少なかったため、正四位下で参議・式部大輔しきぶのたいふを兼任する62歳の父親が弥勒寺で一周忌法要を行った際も、何の供養もできず、悔しい思いをしました。
 道真に対し、最後に母はこう告げました。「昔そなたを死の淵から救ったのは観世音菩薩だから、私が誓った通り、観音像を造りなさい」。それから3・4年間、言われた通りに給与の一部を割いて経費に充てたのですが、観音像を造る費用で消えてしまい、法要を行うには至りませんでした。

 30歳で五位となり中級貴族となった道真は、母の恩に報いるべく法要を行おうと決心し、費用を貯えるため節約に励みました。そして母の死から7年半が経過した元慶3(879)年6月、父親に法要の話をすると、彼は喜び、こう言いました。「私は寺院を建てて『最勝王経』と『法華経』の法会を開きたいと思っているが、『最勝王経』の法会は去年行ったから、『法華経』の法会はそなたが開きなさい」。そして吉祥悔過きちじょうけかに合わせ、10月に行うよう命じました。
 さらに、「年が明けたら官職を退き、仏道修行に専念したい」とも告げました。致仕ちしと言って70歳になれば引退する習いですが、道真も文章博士もんじょうはかせ式部少輔しきぶのしょうとして活躍しており、俗世のことに関しては何も思い煩うこともありません。当時是善は68歳でしたが、引退の時期を1年前倒しして、残り少ない余生を御仏に捧げたいと考えたのです。
 しかし翌年2月下旬、是善は病に臥し、薬石の効なく8月30日に亡くなってしまいました。位は従三位に昇り、参議・刑部卿ぎょうぶきょうで生涯を終えました。彼の薨伝は『扶桑略記』(元慶4年8月30日条)に収録されていますが、道真が『三代実録』に執筆したものを転載したもののようです。そこには、

 天性てんせい事少なく、世体忘るるがごとし。常に風月をで、吟詩を楽しむ。最も仏道を崇び、人物を仁愛す。孝行天至てんし 、殺生を好まず。臨終の夕べ、「四命根を絶ゆれば、孟冬まうとう悔過 けくわの期に及ばざらん。今日死すといへども、の月に至らばために功徳をしゆせよ。」とのみ言ひ、一言いつごんにしてみ、更に他語し。(中略)
 延暦以来、毎年十月に吉祥悔過文(「会」の誤り?)を修す。清公、常に誓ひて願はくは、「吾が死、十月のうちに在らんと欲す。」と。遂に十月十七日に薨ず。自後、此の日に修せるは、の忌日なり。是善、薨後に其の日を改めず念仏読経し、書をて思ひに沈む。寝疾の中、かつ塞廃そくはいせず。

とあります。
 是善は、学界を領導し、高位高官に達しましたが、詩を愛し、仏教に深く帰依していました。その父清公も「仁にして物を愛し、殺伐を好まず。造像・写経、これを以て勤めと為す。」(『続日本後紀』承和9年10月17日条清公薨伝)と記された仏教信者で、毎年10月に吉祥悔過を行い、願い通り10月中に亡くなりました。是善も父の命日に吉祥悔過を行い、病床でも怠ることはありませんでした。そして息子にも10月が来れば吉祥悔過を行うよう遺言し、それ以上何も言いませんでした。この遺言は、願文に「遺誡の中、更に他事無かりき。唯十月の悔過失堕すべからざることのみ有り。 」、あるいは「先考、弟子の失はざるを誡めし所は、今日開会の朝なり、弟子、先考の相違へるを奉りし所は、去年薨逝の夕なり。」とあるのと一致し、やはり道真の手によるものと考えて良さそうです。

 後に道真も大宰府で「吉祥院の10月の法華会は累代るいだいの家事だから、絶やすことのないように」と遺言しており(「北野天神御伝」)、父と祖父の遺志を重く受け止めていたことが分かります。しかしこの時、「累代の家事(先祖代々の家の行事)」を「吉祥悔過(=吉祥会)」ではなく「法華会」と言ったことについては、注意する必要があります。と言うのも、「吉祥悔過」と「法華会」は等質ではないからです。
 清公から道真に至る菅原家と仏教との関わりについて、田村圓澄氏が詳しく述べていますが(「菅原道真の仏教信仰」『菅原道真と太宰府天満宮 上』吉川弘文館、1975年)、そこに興味深い記述があります。それは是善が供養を企図した『最勝王経』と『法華経』の違いです。
 元来吉祥悔過は奈良時代後半に南都仏教で行われていた法会で、『最勝王経』大吉祥天女品・大吉祥天女増長財物品によって正月に吉祥天を祀り、除災招福を願うものです。つまり、吉祥悔過と最勝会は共に『最勝王経』に基づく仏事なのです。護国の経典である『最勝王経』が重視されたのは奈良時代ですが、清公が生まれたのは奈良末期の宝亀元(770)年、まだ「土師はじ」の姓を名乗っていた頃の話です。そして是善は『最勝王経』の注釈書に序文を書いており(後藤昭雄氏「菅原是善伝断章」「日本歴史」535、1992年12月)、内容についても理解していたと思われます。
 対する『法華経』は天台宗の根本となる経典です。遣唐使船で清公と最澄は同じ船に乗っていましたから、当初から接点がありましたが、円仁の遺著『顕揚大戒論けんようだいかんろん』の序文執筆を天台座主安慧から依頼されて道真に代作させた(『菅家文草』07:551「『顕揚大戒論』序」)ところをみると、是善は天台宗とさらに深い交流を有していたようです。
 道真は母親の感化を受けて篤く観音を信仰しましたが、その背景には、天台宗と『法華経』があったという訳です。清公が始めた10月の吉祥悔過を是善が継承して17日に開くこととし、道真は是善の指示に従って10月に法華会を開きましたが、毎年開催すべきは吉祥天が主体の吉祥悔過であって、観音主体の法華会ではないはずです。ですから、「北野天神御伝」の記述には問題があると言わざるを得ません。道真が吉祥悔過から法華会に転換させたか、混同して遺言したか、伝え間違えたか、執筆者が取り違えたか、そのいずれかになります。

 道真が最初に願文を代作したのは貞観元(859)年15歳のことで、讃岐守時代にはまどろみながら口述筆記させた(12:662)ことがあるほど習熟しています。彼の願文を最初に斜め読みした時から、類似した表現が多いように感じていたのですが、思い過ごしではなかったようで、軽く再読しただけでも容易に類似表現や共通語彙が見つかりました。

「心申事屈」11:641・11:642に同一句あり
「即作念曰」
 ※『法華経』囑累品の「即作念言」による
「弟子、亦嘗作念曰」(12:655)
「弟子等、又、次作念曰」(12:658)
「四内親王、運籌帷帳、作念言曰」(12:664)
「起廿一日、至廿四日」起廿三日、至廿六日」(11:647)
「自十一日、至十四日」(11:638)
「自廿一日、至廿五日」(12:659)
「無父何恃、無母何怙」無父何怙、無母何怙」(11:638)
「身之数奇、夙為孤露」身之数奇、家之単祚」(12:661)
夙為孤露、未報微塵」(12:654)
「妾之薄祐、夙為孤露」(12:655)
「幼稚之年、乍為偏露」(12:662)
「皇天不祐、夙為偏孤」(11:643)
「引導弟子之考妣、速證大菩提果」
 ※「速證菩提」は『最勝王経』夢見金鼓懺悔品による
「請導先妣於安楽、速證菩提之正覚」(11:641)
速證菩提果」(11:646・11:649)
速証菩提之誓」(12:661)
速證菩提」(11:637・11:642)
「無辺功徳、無量善根」
 ※「無量無辺」は『法華経』に頻出
「於知恩報恩、乃無量無辺乎」(11:641)
「一言一説、不誑語者、無量無辺、施方便力」(12:654)
「如是等罪、無量無辺、未死之前、可慙可愧」(12:655)
无量无辺何処起/自身自口此中臻」(04:279 ※詩)
功徳無辺、善根無量」(09:590 ※奏状)

 その他、「作是言」も『法華経』に頻出する表現であり、「大乗だいじょう」「発願ほつがん」「禅供ぜんく 」「随喜ずいき 」「妙理」「禅衆ぜんしゅ」「法筵ほうえん」なども仏教語ですが、見落とせないのが「念彼観音力」です。
 『法華経』普門品ふもんぼんには、「観世音菩薩の神通力を念じることで、あらゆる災いから逃れられる」という主旨の記述がありますが、ここで12回も「念彼観音力」を繰り返しています。この普門品こそが「観音経かんのんきょう」であり、観世音菩薩について説く経典に他なりません。母が観音に対し誓いを立てたからこそ、遺言の中に普門品の句を引用したのです。
 もっとも、仏教の言葉や経典の記述ばかりではありません。例えば、「不怨天、不尤人」は、『論語』憲問篇や『孟子』公孫丑下に見える表現です。

 道真の願文の傾向と語彙・吉祥院建立の時期・是善薨伝との一致・「吉祥悔過」と「法華会」の違いと、様々な事柄について書いてきましたが、最後にもう一つ。是善が妻の一周忌法要に書写した経典の組み合わせについてです。
 『法華経』を中心に据える場合、序説の『無量義経』を開経かいきょうに、総説の『普賢観経』(正式名称は『観普賢菩薩行法経』、別名は『観普賢経』)を結経けっきょうに、対にして追加します。この二経は合わせて「開結二経かいけつにきょう(開結、開結経とも)」と呼ばれ、3つをまとめて「法華三部経ほっけさんぶきょう」と総称します。更に「具経ぐきょう」、すなわち『般若心経』と『阿弥陀経』を加える場合もあります。これらのうち、是善は『阿弥陀経』以外の四経を書写したことになります。
 そこで、この五経を中心に他の願文を見てみましょう。全てを挙げると煩雑になりますので、是善が書写したものと2つ以上一致するものを抜粋したのが次の表です。

作品番号法要の種類法華経無量義経普賢観経般若心経阿弥陀経その他の経典・備考
11:652四十九日 
12:660四十九日『転女成仏経』
11:642追善供養法華会
12:654逆修 
11:651一周忌 
12:655一周忌『最勝王経』
『地蔵経』
『仏頂尊勝陀羅尼経』
12:657一周忌『仏頂尊勝陀羅尼経』
『転女成仏経』
12:653一周忌『最勝王経』、一切経供養
11:641追善供養 
11:649修功徳 

 他の例とあわせて考えると、『法華経』が数多く書写されているようですが、最勝会など特定の経典による法会を除き、どの法要でどの経典を用いるか、特に決まっていなことが良く分かります。また、『阿弥陀経』以外の四経を書写するという方法が、珍しいことでないことも確かです。

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口語訳

吉祥院法華会願文
〈元慶五年十月廿一日〉

仏弟子
従五位上式部少輔
菅原朝臣が謹んで(御仏に)申し上げます。
吉祥院を建てた経緯については、
(父が以前)「最勝会願文」で詳しく述べました。

伏して考えますに、
私の情け深い親である伴氏は、
去る貞観十四年正月十四日、
突然亡くなりました。
一周忌に際し、
亡き父は
『法華経』一部八巻・
『普賢観経』
『無量義経』各一巻・
『般若心経』一巻を写し申し上げました。
(しかし当)時は、この(吉祥)院は建立されていませんでした。
(そこで父は)すぐに弥勒寺の講堂にて、
あらかた
『法華経』の深遠なる教えを説き、
逝去した尊い(母の)霊魂を(極楽浄土へ)導きました。
(しかし)私は、
なお位も低く人望も乏しく、(供養しようと)心がはやるも実現できませんでした。
(ただ)血の涙を流すばかりで、全く(法要を)営むことはありませんでした。

また、亡母が逝去した日、
(母は)私に命じて(こう)仰られました、
「そなたが幼かった頃、
 病気になって危篤に陥りました。
 私の心は、深い悲しみをこらえきれず、
 (息子の命を助けて下されば)観音像をお造り申し上げるという誓願を立てました。
 かの観世音菩薩の力を念じたから、
 そなたの病気は治ったのです。
 そなたが給料を頂くようになったら、その一部を割き、
 わずか(な額)を積み重ね、(観音像を造る)費用として支払いなさい。
 発願した理由が、そなたの身(の上)にあったとは言え、
 (私は造立を)怠った責任を感じ、(死後も)心配するのではと気がかりなのです。」と。
私は、
遺言を承ってから三四年間、
ささやかながら(観音像を造立して)荘厳しましたが、
礼拝は依然として滞っておりました。

(しかし)その後、
天恩は(私を)お忘れにならず、
(昇進して)官位は身の程を過ぎるまでになりました。
そこで(こう)誓いました、
「得た給与は、まず(観世音菩薩の)恩に報いる元手とし、
 恩に報いた後、遊興の費用としよう。」と。
ここにおいて、
生活費を節約し、法要の経費を準備しようとしました。
元慶三年の夏の終わりに、
詩文の席で、(父の)御機嫌を伺った際、
この(母の遺言をかなえたいと言う)思いを、あらかた亡き父に伝えました。
(すると)父は(こう)仰られたのです、
「良いことだ、そなたがこう申すとは。
 私は寺院を建立して、
 (『最勝王経』と『法華経』という)二部の経典を説こうと思っている。
 『最勝王経』という深遠な教えを説く経典は、
 私の発願により、昨年講会こうえ を終えた。
 『法華経』という優れた乗り物は、
 そなたの報恩に託し、共に随喜しよう。
 ただ(心配に)思うのは、
 (私は)七十歳を前にして、死期が迫っていることだ。
 来年になれば、(死に)先立って官を辞すつもりだ、
 その際は、深遠な真理に耳を傾けようと思う。
 深遠な真理を聴くことで、(御仏と)縁を結ぼう、
 縁を結べば、私には(もう)思い残すことなどない。
 また、我が家の吉祥悔過は、
 長らく初冬十月に行ってきた。
 (『法華経』の)法会は、(吉祥悔過にあわせて)この時期に行いなさい。」と。
私は、
謹んで心のこもった(父の)戒めを承り、決しておろそかにしませんでした。

ここに、
太陽は止まることなく、
年月はもう巡ってきました。(月日が過ぎるのは早いものです。)
(翌元慶四年)二月下旬、私は初めて(父の)病床に侍り、
八月三十日、父はとうとう亡くなりました。
遺言の中には、(仏道に関わりない)他の事は何もありませんでした。
ただ十月の(吉祥)悔過は(時期を違えず)必ず行うようにということだけでした。

今、
八月は既に過ぎ、父の喪は以前に明けましたが、
正月はまだですから、母の忌日はさらに先です。
(しかし父の遺言に従い、今月)二十一日より(法華会を)始め、
二十四日になるまで、
僧侶を拝み、
法要を営むことにします。
仰ぐのは、(私が)新たに造った観音像であり、
説くのは、(父が)昔書写した法華経です。
(発願した)当初は、(御仏の)深遠なる報いによって一緒に生者(私)と死者(母)の功徳にしようと思っていましたが、
現在は、善行にこと寄せて共に亡き父母を(極楽浄土へ)導いて下さるよう願っています。

ああ、
亡き父が、間違えないよう私に誡められたのは、
今日(法華会を)開催する日のことでした、
私が、(臨終が吉祥悔過の月と)異なることを亡き父から承ったのは、
昨年(父が)亡くなった夕暮れのことでした。
私は、
父もおらず誰を頼れば良いのでしょう、
母もおらず誰を頼れば良いのでしょう。
天を怨んだり、
人を責めたりはしません。
(しかし)不遇にも、
早くも孤独な寄る辺なき身となってしまいました。
(私は)観世音菩薩に帰依します、
妙法蓮華経に帰依します、
(法に)説いたように、
(仏が)誓ったように、
私の亡き父母を(浄土へ)お導きになり、
すみやかに大いなる悟りという果実をお示し下さい。
限りなき功徳、
計り知れぬ善根、
広く全世界に与え、
皆で御仏の恩恵を受けましょう。

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