下御霊天満宮
所在地:京都市中京区下御霊町
交通:京阪電鉄・丸太町駅下車
京都市バス・河原町丸太町バス停下車
(傾向)こんなところで『三代実録』を開く羽目になるとは誰も予想せず。
(対策)頑張って歴史のお勉強。
駅から丸太町通を300mあまり西へ向かうと、右手に京都御所が見えてきます。ここで寺町通を左折すると下御霊神社があります。もとは上御霊神社と一体だったのが、分離移転したものです。
清和・陽成・光孝3代の天皇の在位時を対象とした歴史書が『日本三代実録』で、道真も編纂に関与しているのですが、この中に、神泉苑を一般庶民に開放して実施された「貞観の御霊会」に関する記事があります。これは民間で行われていた御霊会なる怨霊慰撫の祭りを初めて朝廷が主催することにより、反体制派を牽制しようとしたものです。と言いますのも、政治の世界の権力闘争の犠牲者が死して御霊になり、天変地異や疫病の形を取って社会に祟りをなすとされるからで、「直面している災厄の根本原因はそのような敗者を生み出す政治である」という批判を封じる必要があったためです。
奈良時代の天平元(729)年に藤原光明子を皇后に据えようとして左大臣長屋王・吉備内親王夫妻を自殺に追い込んだ後、光明子の兄弟が相次いで死亡し、長屋王の遺骨が漂着した先で人民に祟りをなしたという話がありますが、平安時代に入ると、祟る/祟られるの力学が個人対個人のレベルでは済まずに、個人対社会にまで拡大していました。最大の御霊が道真であることは良く知られたところです。ただ、その後は御霊と目される対象が安和2(969)年に左大臣から大宰権帥に左遷された源高明のような敗者側の貴族ではなく牛頭天王など実在人物に比定できない存在に転じますので、御霊信仰の政治的役割は失われたとみて良いでしょう。
そして貞観の御霊会において御霊とされたのが、「崇道天皇」「伊予親王」「藤原夫人」「観察使」「橘逸勢」「文屋宮田麻呂」の6柱です。
「崇道天皇」は桓武天皇の同母弟早良親王のことです。僧侶から還俗して皇太子になりましたが、延暦4(785)年、新都長岡京建設プロジェクトの中心人物であった天皇の腹心藤原種継が暗殺された事件に関与したとして乙訓寺に幽閉され、ハンガーストライキの末に死亡しました。その後、桓武天皇の周囲に不幸が続き、親王の祟りが原因とされたため、天皇号を追贈されました。
伊予親王は桓武天皇と「藤原夫人」こと藤原吉子の間に生まれた皇子です。緊縮財政を取っていた異母兄平城天皇に派手好きの性格を疎まれ、大同2(807)年、母親とともに幽閉されて果てました。
「観察使」は藤原種継の息子仲成で、北陸道観察使に任じられたことに由来します。弘仁元(810)年、旧都平城京で病気療養中だった平城上皇が首都を平城京に戻そうとして失敗した事件を、彼の愛人だった仲成の妹の名を取って「薬子の変」と呼びますが、この時、平安京に戻ってきたところを射殺されました。なお、蛇足になりますが、藤原薬子が後宮女官のトップ尚侍だったために、上皇方に機密情報が漏れることを警戒した嵯峨天皇によって新設された官職が、蔵人頭です。
橘逸勢は嵯峨天皇・空海と並び称される能書家ですが、承和の変において流罪に処せられ、現地で死にました。平安末期の説話集『今昔物語集』には、彼が死後に行疫流行神となって平安京に風邪を流行らせた姿が描かれています。
文屋宮田麻呂はあまり知られていないと思いますが、新羅と結託して反乱を企てたとして失脚した人物です。
上下の御霊神社では「吉備聖霊」「火雷天神」の2柱を加えた「八所御霊」が祭られています。
「吉備聖霊」は上御霊神社では奈良末期の政治家吉備真備としますが、地方豪族から立身して右大臣に至った経歴を見るに、決して政治的敗者ではありません。むしろ前述の吉備内親王と見る向きもある(永井路子氏『悪霊列伝』毎日新聞社、1977年)ほどです。
「火雷天神」は道真ではなく、光仁天皇(桓武天皇の父)の皇后だった井上内親王が呪詛行為を行ったとして皇后の位を追われ、幽閉された時に産み落としたとされる子供のことです。
なお、現在の八所御霊は貞観の御霊会とは若干異同があります。下御霊神社は藤原仲成に代えて、天平12(740)年に大宰府で反乱を起こして鎮圧された藤原広嗣を、上御霊神社は仲成と伊予親王の代わりに井上内親王とその子で母親に連座して皇太子を廃された他戸親王を祭っています。
さて天神社は門を入って右側にあります。正面に立ってカメラを構えるたびに「社殿が傾いているのでは?」と思うのですが、柵や地面の角度を考慮すると、やはり左に傾いてますね。大丈夫でしょうか?
http://michiza.net/jtp/jtpsmgr.shtml