八月十五夜、月前話旧、 八月十五夜、月の前に
各分一字〈探得心〉
秋月不知有古今 秋月は知らず 古今有ることを
一条光色五更深 一条の光色
欲談二十餘年事 二十餘年の事を
珍重当初傾蓋心
貞観13(871)年8月15日、27歳の
今でこそ仲秋の名月を賞する風習は当然の事のように思われていますが、平安時代以前には行われていなかったようです。それが唐の詩人
貞観6(864)・7・10・12〜13年と、道真の初期作品にこの日に作られた詩が5首・詩序が1篇あり、その題を見ただけでも、詩宴の席で詠まれたものであることは明らかです。この日の宴において道真の父
この詩宴は、後に
その後、月見の宴の舞台は宮中に移ります。光孝朝の仁和元(885)年の8月15日には神泉苑へ行幸して詩宴を開きましたが、夕方には終了した(『三代実録』同日条・『菅家文草』02:152)ので月見までは行われなかったようです。しかしその12年後、醍醐朝の寛平9(897)年には月見の宴が開催されています(『菅家文草』06:441)。天皇が13歳で即位した直後ですから、月見の宴は宇多天皇の在位期間中に道真の意見で始められたのだろうと思います。
次に史料で確認できるものを探すと、宮中ではありませんが、同じく醍醐朝の延喜9(909)年に宇多法皇が
そしてもう一つ、
道真が振り返ったのは、「二十餘年」と言いますから、幼少時から現在までという時間の流れになります。後年息子に4歳で漢籍を読ませている(『菅家文草』02:082「講書の後、戯れに諸進士に寄す」)道真ですから、物心が付くかどうかという幼い頃から塾に出入りしていたのでしょう。自分より年長の若者達に囲まれ、学界の御曹子は可愛がられて育ちました。最終句の「蓋を傾ける」は、偶然程子に出会った孔子が車の絹笠を傾けて終日親しく語り合った(『孔子家語』致思篇)という、『蒙求』(程孔傾蓋)にも引かれた有名な故事に基づく言葉で、親交を交えることを言います。そうして久々に顔を合わせ、共に勉学に励んだ日々を回想し、夜更けまでしみじみと語り合う人々を、月は静かに、しかし温かく照らすのでした。
なお、八月十五夜の詩宴が日本に定着する経緯については、北山円正氏が「菅原氏と年中行事」(「神女大国文」13、2002年3月)という論文で詳しく取り上げています。上述の内容より後に発表されたものですが、「宮中での開始は寛平9(897)年である」という説を除けば、大きく齟齬する点はないようです。ただ、菅家の詩宴は勉強の成果を競う場であること、今回取り上げなかった作品に触れていることなど、何かと参考になりますので、御紹介しておきます。
八月十五夜、月を前に昔話をし、
各自に韻字一字を割り当てた〈探韻して「心」を得た〉
秋の月は昔と今(の違い)を知らないように(変わりなく輝いている)
一筋の(月の)光の色(の下) 未明に夜は更ける
過去二十年余りのことを語り合おうとすると
ありがたいのは その頃 親しく交際した(私達の)心だ