山陰亭

原文解説口語訳

『菅家文草』02:082

講書之後、戯寄諸進士  講書かうしよの後、たはむれに諸進士しんじ に寄す

我是煢煢鄭益恩  我は煢煢けいけいたる鄭益恩じようえきおん
曽経折桂不窺園  曽経かつて 桂を折らんとして園をうかがはざりき
文章暗被家風誘  文章はほのかに家風に誘はれ
吏部偸因祖業存  吏部りぶひそかに祖業のたもつに
〈文章博士非材不居。 〈文章博士は材にあらざれば居らず。
 吏部侍郎有能惟任。  吏部侍郎は能らばれ任ぜらる。
 自余祖父降及余身、  が祖父より降りて余が身に及ぶまで、
 三代相承両官無失。  三代あひ承け両官失ふことなし。
 故有謝詞。〉     ゆゑに謝詞有り。〉
勧道諸生空赧面  勧めはん 諸生空しく面をあからめんより
従公万死欲銷魂  きみに従ひて万死 魂をさんと欲せよ
小児年四初知読  小児年四つにして初めて読むことを知る
恐有疇官累末孫  恐るらくは 疇官ちゆうかんの末孫にかさぬること有らん

▼ 末尾へ▲ 先頭へ

解説

 元慶3(879)年、少壮の文章博士もんじょうはかせであった道真が、授業の後、文章生もんじょうしょうに向けて書いた詩です。

 まず、第2句の「桂を折らんとして園を窺はざりき」について、意味と典拠を詳しく書いておきます。
 「桂を折る」、これは「桂をたおる」とも言いますが、試験に合格することを指します。優秀な成績で官吏任用試験に合格したことについて、皇帝に対して「桂林の一枝・崑山こんざん片玉へんぎょく(=優れたもののごく一部)」に過ぎないと言った郤〓げきせんの故事(『晋書』郤〓伝)によります。
 「園を窺はず」は、庭も見ずに学問に励むさま。学者として高名な董仲舒とうちゅうじょは、講義の際、帷を下ろして生徒に顔を見せることなく、3年間もの間庭を見ようとしなかった(『漢書』巻56董仲舒伝)という話に基づきます。この「帷を下ろす」「三年園を窺はず」はかなり知られた表現のようで、過去に省試しょうし(文章生選抜試験)で「『三』が題材、『帷』が韻字の詩を作れ」と出題された時、「長く董生の帷を下ろす」「久しく仲舒の帷を下ろす」と、良く似た解答がありました(『経国集』巻14)。
 それはともかく、この2つのエピソードは、児童用教科書として使われた『蒙求もうぎゅう』にも収録されており(郤〓一枝・董生下帷)、学生でも即座に意味を理解できたはずです。

 ここで問題となるのが、詩の最初で自らを鄭益恩じようえきおんになぞらえた点です。彼の父は後漢の学者であった鄭玄じょうげんで、優秀な学者の息子として引き合いに出しただけなら問題ありませんが、『後漢書』には「ただ一子益恩のみ有り」(巻35鄭玄伝)とあり、孤独なこと、特に妻や兄弟のいないことを指す「煢煢」の語を強調する働きがあります。後藤昭雄氏が『平安朝文人志』で検証したところによれば、「三男だが兄二人は夭折した」という通説は誤りで、是善の息子は本当に道真だけだったとも考えられます。
 三男説の根拠として、『桂林遺芳抄』に記された「菅三」というあざな(大学入学時につける通称)が挙げられますが、この「三」が必ずしも兄弟の順を示すとは限りません。中国式の「排行はいこう」による命名ならば、一族内における同世代の順番を示すことになります。それどころか、後藤氏が字の実例を検討した結果(「学生の字について」『平安朝漢文学論考』桜楓社、1981年)からして、何の必然性もなく選ばれた可能性さえありますので、決定的な証拠ではないのです。同様に、三善清行みよしのきよゆきの子文江は「善三」を字としますが(『二中歴』)、三男と判断する傍証はやはりなさそうです。
 なお、道真が是善の第三子であることは、古くは没後半世紀頃に書かれた『北野天神御伝』に見えます。これが字から判断した結果なのか、それとも本当にそうだったからなのか、決めかねるところですが、この年の冬から道真は巨勢文雄こせのふみお の後を承けて『後漢書』の講義を開始します(『本朝文粋』09:262紀長谷雄「後漢書の竟宴にて、各史を詠じ、〓公を得たり」詩序を参照)。益恩の名を挙げておきながら、昔父親から講義を受けた基本テキストの内容を把握していなかったというのも、ちょっと考えづらいところです。

 ところで、学生相手に「私は猛勉強してこの職に就いたのだから、君達も頑張りなさい」と励ますのは良いのですが、紀伝道を菅原家の「家風」「祖業」と言い、その仕事を「疇官(代々世襲する官職)」と言い切ってしまって良いのでしょうか? 相手は学問で身を立てようとする中下級官吏の子息達です。父祖が紀伝道出身でなくても不思議ではありませんし、繰り返し受験するうちに30代・40代に達することさえあります(「絶句十首、諸進士の及第を賀す(1) 」を参照)。この文章生の中には紀長谷雄きのはせおもいますが、彼の祖父は医者、父は法律関係の役人で、年齢は道真と同じ35歳でした。
 学者の家系として、菅原家は三代続けて文章博士や式部省の次官を輩出しました。道真が若くしてこの2つの職についたのも、ひとえに英才教育の賜物です。しかし同時に祖父は公卿で父は殿上人でんじょうびとでもありました。つまりは中級貴族の子孫だと言うことです。長谷雄も含め、貴族とは名ばかりの地下人じげびとの出身で、学習環境にもなかなか恵まれない人間が生徒の中にいることを考慮すると、家柄を誇示し、世襲を前提とした発言をするのは、あまり適切ではないように思います。強固な家意識がはしたなくも露呈したとも言えますね。

▼ 末尾へ▲ 先頭へ

口語訳

講義の後、戯れに文章生たちにおくる

私は孤独な鄭益恩じようえきおん(大学者の一人息子)
以前は合格すべく(試験勉強に)専念して庭も見ない有様だった
文章博士の官は知らないうちに家柄に導かれた結果で
式部少輔しきぶのしょうの職は少しは先祖伝来の学問を伝えるからだ
〈文章博士は才能がなければなれない。
 式部省の次官は能力があれば任じられる。
 私の祖父から私にいたるまで、
 三代引き継いでこの両方の官職を失わなかった。
 だから先祖への感謝の言葉があるのだ。〉
励まして言おう 君たちはむだに顔を赤らめるよりも
君主に従って死にものぐるいで努力しようとしなさい
息子は四歳で初めて読書を知った
おそらくこれら世襲の職を子孫へ引き継ぐことだろう

▼ 末尾へ▲ 先頭へ


トップこのサイトについて3分で読む菅原道真みちざねっと・きっずFAQ
苦しい時の神頼み普通の人のための読書案内漢詩和歌快説講座作品一覧「研究文献目録」補遺

(C)1996-2024 Makiko TANIGUCHI. All rights reserved.
http://michiza.net/jcp/jcpkb082.shtml