早衙
廻燈束帯早衙初
不倦街頭策蹇驢
暁鼓〓〓何処到
南為吏部北尚書 南は
貞観18(876)年、
夜も明けやらぬうちに起床し、照明の下で服を着替えます。勤務時の服装は法律で規定されており、身につけているもので位が分かるようになっていました。当時道真は貴族の最低ラインとされる
日の出前に諸門が開き、日の出後に大門が開きます。その際、始めは弱く、徐々に強く、12回太鼓が打たれます。それを二度繰り返せば、門が開きます。諸門が開くのを待って中に入り、
正午前に再び太鼓が鳴り、大門が閉じられます。これが終業の合図です(『宮衛令義解』開閉門条および『延喜式』陰陽寮)。門を開閉する時刻は季節によって細かく変わりますが、夏至の日は午前4時30分に出勤し9時24分に終業、冬至の日でも6時48分に出勤し11時18分に終業と言いますから、早朝から午前中までの5時間弱が勤務時間でした(松尾かをる氏「古代日本人の時間意識──『続日本紀』恩赦記事に見える「昧爽」──(下)」「福岡大学大学院論集」31-2、1999年12月)。
もちろん終業時刻に全員が帰宅したわけではなく、日没後に諸門が閉じられるまで(夏至で午後7時27分、冬至は午後5時6分)残業に追われる者もいれば、宿直勤務の者もいました。戸籍や租税の管理など、民政に直結する業務を行う民部省は忙しい役所だったようで、任命当初に島田
さらに続けて、「あなたは(
後にこの時代を回想して、朝から晩まで奔走し、公文書に煩わされる日々だったと述べています(『菅家文草』04:292「日の長きに苦しむ」および『菅家後集』674「家集を献ずる状」)。この詩の直前に収められた「雪中の早衙」(『菅家文草』01:073)も同じ時期の作ですが、それによれば、雪のちらつく中、酒をひっかけ毛皮を羽織って出勤し、役所に着けば、凍える手に息を吐きかけながら書類を書き続けるのが、民部省に勤める少壮官吏の日常だったようです。
朝礼
嫌だとは思わない 街に駄馬をむち打ち出勤することを
(主要な門を開くよう告げる)夜明けの太鼓の音は どこに響くのだろう
(それは)南は式部省 北は太政官(に挟まれたこの民部省)