絶句十首、賀諸進士及第(1) 絶句十首、
七七頽齢是老生 七々の
誓云未死遂成名 誓ひて云ふ 死なじ 名を成すを
明王若問君才用
吏幹差勝風月情
〈賀丹誼。〉 〈
元慶8(884)年春に実施された
この時の試験については後藤昭雄氏が整理しており(「学生の字について」『平安朝漢文学論考』桜楓社、1981年)、それによって詳細を容易に知ることができます。
省試は文官の人事を司る
合格者の年齢を見ると、20代から40代まで広い世代にわたっており、いかに狭き門だったかが良く分かります。一般的傾向を知るために、他の人の場合と比較してみましょう。
人物名(生没年) | 省試合格時期 | 合格時の年齢 | 備考 |
---|---|---|---|
藤原衛 (799〜857) | 弘仁7(816)年 | 18歳 | 右大臣内麿の子 |
正躬王 (799〜863) | 弘仁7(816)年 | 18歳 | 桓武天皇の孫 |
菅原道真(845〜903) | 貞観4(862)年 | 18歳 | |
藤原邦基(875〜932) | 寛平5(893)年 | 19歳 | 左大臣良世の子 |
菅原清公(770〜842) | 延暦8(789)年頃 | 20歳頃 | |
南淵弘貞(777〜833) | 延暦15(796)年頃 | 20歳頃 | |
小野篁 (802〜852) | 弘仁13(822)年 | 21歳 | 参議岑守の長男 |
滋野貞主(785〜852) | 大同2(807)年 | 23歳 | |
藤原愛発(787〜843) | 大同4(809)年 | 23歳 | 右大臣内麿の子 |
菅原善主(803〜852) | 天長2(825)年 | 23歳 | 文章博士清公の子 |
大江音人(811〜877) | 天長10(833)年 | 23歳 | |
橘広相 (837〜890) | 貞観2(860)年 | 24歳 | |
小野岑守(778〜830) | 延暦22(803)年以前 | 26歳以前 | |
南淵年名(807〜877) | 天長9(832)年 | 26歳 | |
島田忠臣(828〜892) | 仁寿4(854)年頃 | 27歳頃 | |
都良香 (834〜879) | 貞観2(860)年 | 27歳 | 文章博士腹赤の甥 |
三善清行(847〜918) | 貞観15(873)年 | 27歳 | |
春澄善縄(797〜870) | 天長元(824)年 | 28歳 | |
橘澄清 (861〜925) | 寛平2(890)年 | 30歳 | |
藤原興範(844〜917) | 貞観15(873)年 | 30歳 | |
紀淑光 (869〜939) | 昌泰元(898)年 | 30歳 | 長谷雄の子 |
紀長谷雄(845〜912) | 貞観18(876)年 | 32歳 | |
藤原道明(856〜920) | 寛平2(890)年 | 35歳 | |
藤原当幹(864 〜941) | 昌泰元(898)年 | 35歳 | 菅根の同母弟 |
生没年や合格時期が分かるのは後に五位に達した人間が中心ですから、対象の偏りは否定できないものの、ある程度の傾向はつかめると思います。
道真の18歳合格は史上最年少タイ記録で、まさに英才教育の賜物ですが、通常は20代で合格しているようです。しかし、親戚に学者がいるか、裕福な家庭の人間でもなければ、学習開始時点で出遅れ、複数回受験の末に中年に達してもおかしくありません。今回合格した藤原菅根(856〜908)は藤原氏でも武門の出ですが、母親が学者家系である
連作の第1首を飾る「
ところで、今回の省試ですが、道真が出題者(式部少輔)・合格後の指導教官(文章博士)・受験予備校の校長(「廊下」主宰)という3つの立場を兼ね備え、広相が自分の息子公廉の合否判定をしているという状況は、問題がないとは言い切れません。しかも広相は道真の父
四十九歳の高齢 これこそ老人
誓って言うことには 名声を挙げるまで死ぬまいと
もし優れた天子が 君の適性についてお尋ねになれば
事務能力が 詩情に いくらか勝る(そう申し上げたい)
〈