到河陽駅、有感而泣
去歳故人王府君
駅楼執手泣相分 駅楼に手を
我今到此問亭吏 我今
為報向来一点墳
河陽駅こと山崎駅(京都府大山崎町)は淀川沿いに位置し、両側を山で挟まれた交通の要所にありました。前年の春、讃岐へ向かう途中、山城国の端で友人「王府君」と手を取り合って別れを惜しんだのですが、再会を期して所在を尋ねたところ、駅の職員が指した先は、真新しい墓でした。わずか1年半前に会った友人が最近死んだと知り、道真は、故人の眼前で泣いた時のように墓前で泣いたのでした。
この「王府君」について、従来は渡来人系の駅長と理解されてきました。同じ山城国内とはいえ、都で生まれ育った道真と地元採用の駅職員がなぜ知り合いなのか不思議だったのですが、赴任当時に山城守だった興我王の可能性を田坂順子氏が指摘しています(「扶桑集全注釈(一)」「福岡大学総合研究所報 人文科学編」第63号、1989年3月)。皇族の場合、呼称として官職の前に「王」が付されることがあり、「府君」が中国漢代における
両者の間に果たして交友関係があったのかという問題が残りますが、興我王の息子平
かくして山崎を通過した道真は、新年を都の自宅で迎えました。その後、再度現地へ赴任、任期満了で帰京、と繰り返し山崎を通りますが、最後にこの地を訪れたのは、大宰府へ向かう途中のことでした。播磨に送られる息子
山崎駅に着き、思うところあって泣く
昨年 友人の王府君(山城守興我王殿)は
駅の物見台で(私の)手を取り 泣いて別れた
私は今(再び)この地に到り 駅の役人に(彼の所在を)尋ねれば
(ここですと)教えてくれたのは 最近(土を盛ったばかり)の一つの墓だった