所在地:兵庫県高砂市曽根町
交通:山陽電鉄本線・山陽曽根駅下車
(傾向)松喰虫ゆえ、もはや昔の友ではありません。
(対策)名所探訪という考えを脇に置くと、ちょっと感動モノのこの広さ。
コースとしては逆になるんですが、特急で一つ先の大塩駅まで行き、大塩天満宮に寄ってから各停で曽根まで戻った方が、所要時間は少なくて済みます。大塩駅では各停と特急が連絡しますから、姫路方面へ抜けるのも簡単です。
改札のすぐ内側に踏切があるという駅の構造には驚かされますが、この踏切付改札を抜けると、左横を道路が走っています。突き当たりに見えるのが天満宮の門。道が分かれば後は歩くだけです。隣に小学校があったりして、なかなかいい感じです。
秋祭は10月13・14日。人が乗った大型の神輿を境内でぶつけ、息を合わせて押し合う「屋台の練り合わせ」は播磨の秋祭の定番ですが、さらに「一ツ物」と呼ばれる神童が登場します。サンテレビ(神戸のUHF局)の録画中継で何度も見ましたが、一ツ物をサポートする若者の装束にはいまだに慣れません。浴衣を着て頭巾をかぶり、横で結んだハチマキで固定した姿が、中近東の民族衣装っぽいんですよ。
大宰府へ向かう途中、道真は隣の伊保駅周辺の伊保港に立ち寄り、姫路市との境にある日笠山に登って休息し、ふもとで祖神
道真が植えたという松は18世紀末に枯れてしまいました。戦後は松喰虫の被害で代替わりが激しく、現在5代目を育成中だそうです。さすがに高砂の松も
境内はとにかく広大。パターゴルフができる広さを想像してみて下さい。それが境内のごく一部です。いたるところに松が生えているのはもちろんのこと、池に橋がかけられていたり、和歌を刻んだ玉垣などもあり、その気になれば本格的な庭園だって作れそうです。
(傾向)企画が違う、と言われればその通り。
(対策)説話と片付けるにはもったいないリアルな記述。
淳茂の名前が出てきたので、彼の話をもう少し続けます。
昌泰4(901)年当時は受験勉強まっただ中の
延喜12(912)年正月、叙位に漏れて五位になれなかった嘆きを内宴の席で詩に詠んだところ、従五位下の位を与えられました(巻4:25)。その喜びを詠じた詩句を新日本古典文学大系から引用しておきましょう(巻4:26)。
悲しびは尽く河陽 に父と離 れし昔 楽しびは余る仁寿 侍臣 の今
〈淳茂、昔、先君と謫行 せられし日、公の使いのために駆 はる。路 に河陽の駅に宿り、一宿の後、分かれ去る。暁に遥かに拝し、談 りて遂に再び逢はず。……〉
詩句を引用した後は、通常話し手である
「政界の頂点に登り詰めた父と、当時院生だった私が、都を追われ、ひと晩を共に過ごしたのは都の外れの駅。夜が明けそめる頃、摂津へと護送されてゆく父の背中を見送った、それが父と会った最後でした。」……
河陽は今の京都府大山崎町、サントリーの工場があるあたり。緑の山が迫ってくる大阪との県境を思い浮かべるたび、左遷の旅を記したこの文章は、あまりにもリアルな記述だという気がするのです。
ところで、この話には、淳茂が心中を詩に綴り、父の弟子であった権中納言藤原道明に贈ったところ、亡父に夢の中で「汝、何ぞ喜ぶや」と言われ、数日後病気になってしまった(巻4:73)という後日譚がついています。巻4:26の詩と韻が同じなので、もしかすると同じ詩の一部なのかも、というのはあくまでも筆者の推測です。