奉感「見臣献家集」之御製、 「臣の献ぜし家集を見る」の御製に感じ奉り、
不改韻、兼叙鄙情、一首 韻を改めず、兼ねて鄙情を叙ぶ、一首
反哺寒烏自故林 反哺せる寒烏は故林に自る
只遺風月不遺金 只 風月のみを遺して金を遺さず
且成四七箱中巻 且つ 四七を成す 箱中の巻
何幸再三陛下吟 何ぞ幸ひなる 再三 陛下の吟じたまふこと
犬馬微情叉手表 犬馬の微情は手を叉みて表す
氷霜御製遍身侵 氷霜の御製は身に遍く侵す
恩覃父祖無涯岸 恩は父祖に覃びて涯岸無し
誰道秋来海水深 誰か道はん 秋来たれば海水深しと
昌泰3(900)年8月16日、道真が『菅家文草』全12巻・祖父清公の『菅家集』全6巻・父是善の『菅相公集』全10巻を献上した際、醍醐天皇は「右丞相の献ぜし家集を見る」という七言律詩を詠みましたが、それを受けて道真が作った詩です。「韻を改めず」とある通り、御製(天皇の詩)の韻字「林」「金」「吟」「侵」「深」(下平声一二侵韻)を順番を変えずに用いており、最も丁寧な形の返礼詩となっています。
原文では、題が「奉感『見献臣家集』之御製...」となっていますが、天皇の詩の題が「見右丞相献家集」であり、文法的にも適切でないので、「献臣」の2字を「臣献」に改めました。
道真が学者・詩人として宮廷に重きをなした祖父と父の後を継ぐ存在であったことは、天皇や道真だけでなく当時の貴族達に共通した認識でした。それは30年前の貞観12(870)年に26歳で方略試を受験した折、試験官の都良香が問題文の中で、「子、祖徳は頌に在り、陸機を詞濤に架け、家風は詩を著し、潘岳を筆海に没す。」と、陸機(261〜303)・潘岳(248〜300)という2人の詩文家を引き合いに出していることからも窺えます。
そして正三位右大臣という高位高官に至ったのは、風月(詩文)を愛した父祖の余慶だと道真は思っていました。その意識を端的に表したのが、「反哺寒烏」の語です。
「寒」は自己を卑下した言い回し。日本では人間社会に害をなす知能犯として評判の悪い烏ですが、中国では親孝行の鳥であり、成長すると、幼少時にしてもらったように口移しで親に食物を与えるとされていました。その行動が「反哺」で、転じて子が親の恩に報いることを指す言葉となりました。詩才が父祖の伝統に根ざすと考えていたからこそ、道真は自身の詩文集に祖父と父の詩文集を合わせて献上し、「恩は父祖に及び 果てがない」という言葉が出てくるのです。大宰府にあってもこの認識は変わらず、詩について「父祖子孫 久しく要期す」と述べています(『菅家後集』477「楽天が『北窓の三友』の詩を読む」)。
遺産として残されたのは財産ではなく詩文でした。それらを集成すると、28巻もの分量になりました。天皇は愛読していた『白氏文集』はもう繙かない、とまで賞賛しているのですが、道真はわざとその点には触れず、菅家三代の存在が好意的に受け取られたことに対して謝意を表しています。「四七(=二十八)」「再(=二)三」は数字を使った対句。
後世、大江匡房が「亀の甲羅に彫物を施したようなもの」と、作詩の手本にするには困難がつきまとうと評したように(『江談抄』)、道真の詩文は時として不必要なまでに装飾に凝ることがあります。それは音韻についても言えることなのですが、そのくせ享受する側が吟じて楽しむことについてはどこか冷ややかに眺めているように感じるのは単なる思い過ごしでしょうか。
「右大臣が献上した家集を見る」という陛下御自身の詩に感じ入り申し上げ、
韻字を変えず(して奉和し)、さらに愚心を述べる、一首
親の恩に報いる貧弱な烏は故郷の林に由来するもの
(父祖は)ただ詩文だけを残して金品を残しませんでした
そして(その詩文は三代で)文箱の中に二十八(巻)となりました
何という幸運でしょうか 二度三度と (その詩を)陛下が詠じられるとは
愚臣の心情は手を組み合わせて(挨拶して)表します
氷や霜のように高潔な御詩は体中に行き渡ります
(陛下の)御恩は父祖に及び 果てがございません
誰が申しましょうか 秋が来たから海は底深いのだと
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