見右丞相献家集 御製
門風自古是儒林 門風
今日文華皆尽金 今日の文華 皆
唯詠一聯知気味
況連三代飽清吟
琢磨寒玉声声麗
裁制餘霞句句侵
更有菅家勝白様
従茲抛却匣塵深
〈平生所愛、 〈
『白氏文集』七十巻是也。 『
今、以菅家不亦開帙。〉 今、菅家を以て
「家集を献ずる状」(『菅家後集』674)にあるように、昌泰3(900)年8月16日、道真は自身の漢詩文集『
学者の家系である菅原家の人々は、代々素晴らしい詩文を作ったと賞賛し、黄金・玉・雲になぞらえます。そして
『枕草子』の「
なお、日本語の「霞」は、空中の水蒸気が生み出すもやのことですが、漢語では朝焼けや夕焼け時の赤く染まった雲を指します。このように漢語と和語で異なる意味を持つ言葉として、「相国の東閤の餞席」(『菅家文草』03:186)で取り上げた「
ところで、醍醐天皇は当時16歳の少年でした。道真は56歳。祖父と孫程に年の離れた二人ですが、必ずしも表面的な付き合いに終始する間柄ではありませんでした。両者の交流をしばらく追ってみることにします。
醍醐天皇(885〜930)は宇多天皇がまだ
敦仁親王は長男ですから妥当な選択ですが、問題はその時期です。天皇は27歳と若く、急いで皇太子を決める必要はありませんでした。親王の母藤原胤子は基経の従兄弟
以来道真は、
3月26日、皇太子が「一日に百首を詠んだという唐の故事に倣い、2時間で七言絶句を10首作るように」と題を指定して命じたところ、道真はたった1時間で作り終えました(『菅家文草』05:391「七年暮春二十六日、...(1)送春」)。そして夏になり、改めて20首の題を与えられ、今度は2時間で五言律詩を詠んでいます(05:401)。渤海使相手に即席で詩を詠み(07:555)、大使から「白居易のような詩だ」と誉められた(02:119(2)「余、近ごろ『詩情怨』一篇を叙べ、...(2)」)ことのある道真だけに、無謀な挑戦ではありませんが、1首6分とは、詩人の面目躍如たるものです。
しかしその頃、宇多天皇は道真に早くも譲位の意を漏らしていました。後半生に顕著に現れる、政務より仏道と風流という指向が既にきざしていたことに他なりませんが、道真は時期尚早だとして反対しました。さすがにこの時は天皇もあきらめましたが、2年後の寛平9(897)年、再び譲位したいと言い出しました。今度は道真も承諾し、密かに準備を進めていたところ、7月に入って譲位の噂が流れ、天皇は譲位を先送りしようとしました。ところが道真は延期はむしろ危険だと判断し、譲位に踏み切らせました。6月8日に右大臣
7月3日、皇太子は13歳で元服し、そのまま即位しました。宇多天皇は、政務について詳細に書き記して新帝に与えました。これが『
しかし内々に命ずるのと、公然と命じるのでは話が別です。譲位の
まず権大納言源
道真の下風に立つということは時平の下位に立つということです。しかし摂関家の嫡男であり、若年ながら政治に熟達した時平に比べ、参議の嫡子とは言え学者に過ぎず、参議になってからわずか4年5ケ月で台閣第2位となった道真に、不満の鉾先が向けられるのは当然でした。
上皇の説得で出仕拒否は解決しましたが、5ケ月後の昌泰2(899)年2月、さらに彼等を刺激しかねない人事異動が行われます。時平を左大臣に任じると同時に、道真を右大臣に昇進させたのです。この後、彼は何度も辞表を提出していますが、それらの文面には、周囲からの非難の嵐に押しつぶされそうになっている心情が、痛ましくも露出しています。さらに10月、宇多上皇が出家してしまい、道真は後楯を失いました。
昌泰3(900)年8月、道真は『菅家集』『菅相公集』『菅家文草』を醍醐天皇に奏上し、天皇から賞賛されましたが、思えばこれが絶頂期でした。9月9日に重陽宴、10日に重陽後朝宴と、宮中で詩宴が開かれますが、多分に形式的な重陽の詩(『菅家後集』472)に比べ、翌日作られた「九日後朝、同じく『秋の思ひ』を賦す、制に応ず 」(『菅家後集』473)は随分深刻な内容を含むものでした。
「大臣就任以来、私は今まで愉しいと思ったことなどありませんが、まして今宵は外の物音だけで物悲しくなります、老い先短い私はどうすれば帝の御恩に応えられるのでしょうか? せめて白居易に倣って酒と琴と詩で気を紛らわせようと思うのです……」
少数の人間だけが出席した場で苦しい胸の内を明かした道真に対し、天皇は後で自らの衣装を褒美として与えました。一年後の同じ日、大宰府で過去の記憶と共にかき抱いたのは、この御衣です(『菅家後集』482「九月十日」)。
そして10月、道真のもとに一通の手紙が届きました。差出人は当時文章博士だった
「占いによれば来年2月に革命が起こります、貴殿は学者でありながら大臣にまで登られたのですから、災いに巻き込まれないうちに身を引かれてはいかがですか?」
文体こそへりくだっているものの、脅迫とも取れる内容でした。しかし道真はこの書状を黙殺しました。辞職しようにもできない状況にまで追い込まれていたからですが、何しろ相手が清行でした。しがない下級官吏の家に生まれ、やっとの思いで学者の地位を手に入れた清行は、2歳年上の紀伝道の申し子に対し、羨望と嫉妬の入り交じった視線を向けていたようです。しかし道真は侮蔑と嫌悪の対象としか思っていませんでした。彼を「詩人」の名に値しない、権力者に追従する「
昨年の重陽宴において出席者が黄菊を詩に詠んだ時、清行は自分の詩の「
そもそも、20年前に清行が
そんな人物から手紙が届いたところで、腹が立ちこそすれ、おとなしく意見に従う余裕など持ち合わせていないのが、道真という人間でした。
しかし清行は次の行動に出ます。翌月、朝廷に「
果たして、清行は反道真派の貴族達と共闘していたのでしょうか? 道真左遷後もなかなか昇進できなかったところを見ると、利害が一致したところをうまく利用されただけだったかも知れません。しかし清行がいてもいなくても、役者と舞台は充分過ぎるまでに揃っています。
娘を宇多法皇・
妹穏子を入内させようとする度に班子女王・宇多法皇親子に阻止されていた時平。
道真の異常な昇進に前々から不満を募らせていた源光以下の公卿達。
政治に介入しようとする父法皇に反発する思春期の醍醐天皇。
あとはただ、囲炉裏に差し出した手の、裾が静かに燃え始めるのを黙って待つばかりでした。
年が明け、昌泰4(901)年の正月になりました。天命が改まるとされる
宇多法皇はこの頃になってようやく政変を知り、慌てて宮中に駆け付けますが、
天皇廃立の罪状について、所功氏は関係史料を検討した末に冤罪との結論を導き出していますが(「菅原道真の配流」『菅原道真と太宰府天満宮 上』吉川弘文館、1975年、『菅原道真の実像』に再録)、外記庁出仕拒否の顛末を振り返れば、道真が政権を独占したところで、政局運営は困難をきたすに違いありません。法皇に説得を依頼した時、「政務より弟子の指導に当たりたい」と、無責任と批判されかねない発言をしているのですが、周囲の協力が期待できない状況で実権を握るには、公卿全員を更迭する程の辣腕が必要ですから、理論家肌の道真にはそこまでやってのける力量も利点もないだろう、というのが正直なところです。
醍醐天皇が宣命に署名・捺印した事について、是非を問うのは酷な話でしょう。年齢の離れた道真に比べ、時平は30歳と若いながらも政務に熟達し、果断で明るい性格の持ち主でしたから、数え年17歳の天皇とは相性が良かったことと思います。加えて道真の背後には父親がいます。時平、あるいは他の公卿が疑惑を持ち出したところで、不審を抱いて父親に相談するとは考えられません。
そして何より道真にとって不幸だったのは、政界にも学界にも、法皇以外に異議を唱える人物がいなかった事です。「官吏の半数は菅原家に学んだ」という清行の言葉(『本朝文粋』07:188「左丞相(時平)に奉る書」)には誇張も含まれるのでしょうが、道真が一大学閥を率いていたことは事実です。にも関わらず、巻き添えを恐れるばかりで、阿衡の紛議の道真のように、敢然と立ち向かう者は誰一人としていませんでした。学問はあくまで立身出世の道具であって、命と引き換えにするだけの価値はなかったということです。
醍醐天皇の立太子から昌泰四年の変に及び、随分話が長くなってしまいました。愛息
右大臣(菅原道真)が献上した家集を見る 天皇御自身の作
(菅原家の)家風は 昔から儒学(の家柄)であり
(さらに)今日(献上されたこ)の素晴らしい詩文は みなすべて黄金(に値するもの)である
ただ対句を詠じただけで(その)情趣を理解する
まして三世代(の詩文)を続けて清々しく詠って満ち足りようか(いくら口ずさんでも飽き足りることはない)
削り磨かれた美しい玉(とも言うべき句)は数多の声が連なり
(美しい錦のように)裁断して仕立てられた一面の赤い雲(に比すべき句)はどの句も(心に)忍び込む
そのうえ菅原家(の作品)は白居易の文体よりも優れている
これからは(白居易の詩文など)投げ捨て(それを収める)小箱(の上に)は厚く塵が積もることだろう
〈(私が)普段愛読するのは、
『白氏文集』七十巻である。
(しかし)今、菅家(三代集が手元にある)ゆえに再び