慰少男女〈五言〉
衆姉惣家留
諸兄多謫去
少男与少女
相随得相語
昼餐常在前 昼は
夜宿亦同処 夜は
臨暗有燈燭 暗きに臨まば
当寒有綿絮 寒きに当らば
往年見窮子 往年 窮子を見たり
京中迷失拠 京中 迷ひて
裸身博奕者
道路呼南助 道路 南助と呼べり
〈南大納言子、内蔵助博徒。 〈
今猶号「南助」矣。〉 今
徒跣弾琴者
閭巷称弁御
〈俗謂貴女為「御」。 〈俗に貴女を
蓋取夫人・女御之義也。
藤相公兼弁官、
故称其女也。〉
其父共公卿 其の父は共に公卿にして
当時幾驕倨 当時は
昔金沙土如 昔は
今飯無〓飫 今は
思量汝於彼
天感甚寛恕
延喜元(901)年9月、大宰府での作です。
「家書を読む」で述べましたように、道真には大勢の子供がいましたが、昌泰四年の変に際し、成人していた息子4人は地方に護送され、その他の子供達は都に留め置かれました。そうして父
しかし何分小さい子供ですから、不自由な生活に対しすぐ不満の声を上げます。そこで道真は、もっと悲惨な実例を引きながら今の境遇がいかにまともなものか語って聞かせたのがこの詩です。もっとも、古体詩を示されて理解できるような年頃ではないでしょうから、より平易な言葉を選んで綴られた虚構と取れなくもありません。
京都や地方にいる兄弟姉妹とは違い、食事も睡眠も父親と一緒にできる子供達。照明もあれば防寒具もある。それなのにあれが足りないこれが欲しいなどとは言ってはなりません。本当に零落した名家の子女はその程度では済まされないのですから。
道真の父
その子南淵良臣は、父親の晩年に従五位下
年名が薨去して随分経った頃、道真が良臣に再会したのは、土ぼこりに煙る道路の上でした。「南助(=南淵+内蔵助)」というあだ名に辛うじて過去を留めるものの、上半身裸になって周囲も顧みず道端に座ってサイコロを振る男があの南大納言の息子だとは、にわかには信じがたい光景でした。
また、裸足で琴を弾いている女性を見掛けたこともありました。世間から「弁の
参議や大納言の御曹子や令嬢なら、贅沢な暮らしも当然のこと。しかし父親が死んでしまえば落ちぶれるのみ。昔は黄金さえ湯水のようにあると思えたのに、今や路傍で寝食にも事欠くありさま。彼らを思うと、父親と同じ屋根の下に寝起きできる状況は、決して悪いものではありません。上流貴族としては確かに厳しい生活でも、先例をたどるとまだましだと思えるのです。
幼子達を慰める〈五言〉
数多の姉たちは皆家に残され
大勢の兄たちはほとんどが左遷され(都を)去った
(君たち)幼い息子と幼い娘だけが
(父に)従って(大宰府に下向し、こうして父の)話を聞くことができる
日中は食事するにもいつも(父の)前にいて
夜中は眠るにもやはり(父と)一緒にいる
暗くなれば
寒くなれば
昔 困窮する子供を見かけた
都の中 道に迷って身の置きどころもなかった
裸で
道端では 南助と呼んでいた
〈大納言
(零落したとはいえ)今でも「南助(内蔵助の南淵君)」とあだ名される。〉
素足で琴を弾く者を
世間は 弁の御と呼んでいた
〈一般にお姫さまを「
(「御」の字を)夫人・女御の意味に取ったのだろう。
その娘を(「弁の御(弁官の姫君)」と)呼んだのだ。〉
その父親はともに
(親が)健在だった頃は (子供達も)どれほど傲慢だったろうか
昔は黄金でさえ土砂のようにあり余っていたのに
今は食事にすら事欠く
君たちを(そんな)彼らと比べると
天の恩は 非常に寛大なものだ