読家書〈七言〉 家書を読む〈七言〉
消息寂寥三月餘 消息寂寥たり 三月餘
便風吹著一封書 便風吹著せり 一封の書
西門樹被人移去 西門の樹は人に移去せられ
北地園教客寄居 北地の園は客をして寄居せしむ
紙裹生薑称薬種 紙に生薑を裹みて薬種と称し
竹籠昆布記斎儲 竹に昆布を籠めて斎儲と記す
不言妻子飢寒苦 妻子の飢寒の苦しみを言はず
為是還愁懊悩余 是が為 還つて愁へ 余を懊悩せしむ
延喜元(901)年、都に残った夫人から3か月ぶりに手紙が届きました。道真は手紙を読み、感慨を七言律詩に綴ります。この詩は、9月22日の「奥州藤使君を哭す」(『菅家後集』486)と12月17日の「寺の鐘を聴く」(491)の間に配列されており、急いで書かれた藤原滋実の訃報とは別の手紙だったようですから、3か月という時間を考慮すると、12月になってから手紙が届けられたようです。
手紙には、ただ淡々と現況を知らせる文字だけが連ねてありました。西門に程近いところにあった木は運び去られ、北側の庭には人を仮住まいさせています。にもかかわらず、手紙には生姜と昆布が添えられていました。生姜は薬に、昆布は仏事に使うようにと断わり書きがしてあります。この2つを手に入れるために木を売却して家を間貸ししたようにも読める流れです。愚痴一つこぼさない妻のことを思い、ささやかな贈り物を前に、道真はただ胸を痛めるばかりでした。
兄弟がいなかったせいか、道真は何人もの女性と結婚し、子供を儲けました。その数何と20人以上。乳幼児死亡率が高い時代ですから、元服前に亡くなってしまった子供もいます。元慶7(883)年に7歳で死んだ阿満とその弟もそうですし(『菅家文草』02:117「阿満を夢む」)、大宰府に連れてきた息子もそうでした(『菅家後集』503「秋の夜」)。道真の嫡子は、土佐介に左遷された高視(876〜913)ですが、「日の長きに苦しむ」(『菅家文草』04:292)によれば、道真が文章得業生だった時には既に子供がいたそうですから、貞観12(870)年までには子供が生まれていたことになり、高視が最初の子供だったわけではありません。
高視以外に、父親に連座して地方官に左遷されたのは、駿河権介の景行、飛騨権掾の兼茂の2人だけです。高視が26歳ですから、文章得業生だった淳茂(?〜926)も含め、他の息子もせいぜい30歳以下だったように思います。ただ、『尊卑分脈』の記述を信じるならば、景行と兼茂はもとより、文章生出身者が5人もいるのはさすがですね。むろんこの中には得業生にまで進んだ高視と淳茂は入っていません。
成人した娘としては、宇多天皇の女御となった衍子、斉世親王(宇多天皇皇子)に嫁いで源英明(?〜939)を産んだ女性、後宮女官となった寧子、今は亡き藤原佐世との間に文行を儲けた女性の4人を挙げることができます。しかし、道真の子供達の内、母親が誰か判明しているのは衍子だけです。そして、その母とは正室の島田宣来子(850〜?)です。彼女は道真の恩師島田忠臣(828〜892)の娘で、筆者は高視も彼女の所生ではないかと思っていますが、いずれにしろ、留守宅に残り、手紙を書いたのは、彼女とみて問題はないようです。
従二位右大臣ともなると、億単位の年収が保証されるはずですが、左遷されて1年も経たないうちに、庭木を手放さなければならない程生活が困窮するのは、今日の私たちには理解しがたい部分です。給与は衣料品や食料品といった現物で支給されますが、月給(月料)は毎月下旬支給、ボーナス(季禄)は2月上旬支給と、左遷された1月25日という時期は主な給与が支給される直前に当たります。それでも昨年末までは各種給与が支給されていたでしょうし、荘園からの収入も少なからずあったでしょう。しばらくは生活できそうなはずが、そうならなかったところに、上流貴族の生活水準の高さと経済基盤の意外な脆弱さが窺えます。
家族からの手紙を読む〈七言〉
消息が絶えてから 三か月あまり
都合の良い風が吹き寄せた 一通の手紙を
西門の樹は人に運び去られ
北側の庭には他人を住まわせている
紙に生姜を包んで薬と名づけ
竹に昆布を入れて精進の際の備えと記してある
妻子の貧しい暮らしの苦しみには触れていない
これゆえ むしろ心配になり 私は思い悩む
http://michiza.net/jcp/jcpkb488.shtml