歳日感懐 歳日の感懐
故人尋寺去 故人 寺を尋ねて去り
新歳突門来 新歳 門を突きて来る
鬢倍春初雪 鬢は倍す 春初の雪
心添臘後灰 心は添ふ 臘後の灰
齋盤青葉菜 齋盤 青き葉の菜
香案白花梅 香案 白き花の梅
合掌観音念 合掌して観音を念じ
屠蘇不把盃 屠蘇あれども盃を把らず
延喜2(902)年、大宰府で新年を迎えた感慨を詠んだ詩です。
翌年2月25日に彼は亡くなっていますから、正月らしい正月を迎えられたのはこの年が最後でした。にもかかわらず、目の前にあったのは、精進の食事をよそった膳と白梅を挿した花瓶を載せた焼香台でした。この光景は、昨年9月9日にも重陽節を拒否して精進潔斎に明け暮れていた(481「九月九日、口号」)ことと軌を一にします。重陽節の菊花酒(菊を混ぜて醸造した酒、または菊を浮かべた酒)や正月の屠蘇(薬草を漬けた酒)は延命長寿の効果を持つとされる酒ですから、これらを用意させなかった心理は、推して知るべしでしょう。
鬢(耳のあたりの毛)の毛は春の雪でますます白くなり、心は臘月(陰暦12月)を過ぎて心はさらに灰のように無心になる。冷めた心を火の消えた灰に例えることは道真の詩に時折見られることで、鬢の雪との組み合わせも、源能有の邸にあった山水画を題材に詠んだ連作に、「鬢雪と心灰と」と見えます(『菅家文草』06:467「近院山水障子詩(6)海上春意」)。
ここで灰が出てくるのは、灰を吹いてその飛び方で季節の移り変わりを知るという方法があるためです。雪で毛髪が白くなったり灰で心が冷えきるなど、むろん現実にはありえない話ですが、「雪=白」「灰=冷」と、物質の持つ特性を引き出して、鬢や心といった全く別の物に添加するところが、漢詩表現の面白さではないかと思います。
正月の感慨
旧知の者は 寺を探して(私の元から)立ち去り
新しい年は 門に突き当たってやって来る
鬢は 初春の雪を重ね(てさらに白くなり)
心は 十二月の後の灰を足し(てますます無心になる)
精進用の平皿には 青菜の葉
香炉を置く台には 白梅の花
掌を合わせて観音に祈り
屠蘇はあっても酒杯を手にすることはない
http://michiza.net/jcp/jcpkb494.shtml