九月尽
今日二年九月尽
此身五十八廻秋
思量何事中庭立 何事を
黄菊残花白髪頭 黄菊の
作品中に明示するように、延喜2(902)年9月30日の作です。続く513「偶作」が病気について触れていることを思い合わせれば、まだ庭に出る元気を残していたと言うべきでしょうか。
大宰府に来た当初、荒れ放題だった庭も、手を入れると少しはましになりました。そこに地元で入手した菊を植えたのは今年の初めのこと。秋が訪れると、期待通りに黄白の花を咲かせましたが、9月9日・10日と重陽らしいこともせぬまま秋も終わろうとしています。ふと思い立って庭先に出てみると、時節遅れの黄菊と中央から打ち捨てられた我が身の老残ぶりが相対化され、ただ苦笑するほかありませんでした。
文章博士だった頃、「8月は父の忌月だから月見の宴は止めてしまったし、9月9日の重陽は宮中で宴があるから忙しいし……」と、弟子達を集め、自宅の庭先で白菊を眺める小宴を9月30日に設けていました(『菅家文草』02:126・04:331)。
ただ、むしろ道真の頭にあったのは、宇多朝に時折開かれていた節のある「残菊の宴」ではないでしょうか(『菅家文草』05:336・05:356、それぞれ寛平2年・4年の作)。また譲位後のもの(06:461、昌泰2年)や皇太子敦仁親王のもとで詠んだ詩(05:381、寛平6年)も同じ系列に属するものと言えましょう。
時の過ぎるのは早く、人や物は取り残されたまま老いてゆく。そこで晩秋も終わりを告げる頃、天皇は気心の知れた側近と詩人数名を呼び、今年最後の花を灯明のもとで内々に鑑賞する。言うまでもなく道真は詩人と側近を兼ねる存在でしたから、大宰府の地で「禁中の密宴、
九月の末
今日は (延喜)二年の九月末
この身には 五十八回目の秋
何を思って中庭に立つのか
(庭には)重陽を過ぎて咲く黄色い菊と白髪頭