左大将藤原朝臣者、
功臣之後。
其年雖少、
已熟政理。
先年於女事有所失、 先年女事に失する所
朕、早忘却不置於心。
朕、自去春加激励、 朕、
令勤公事。
又已為第一之臣。
能備顧問而従其輔道。
新君慎之。 新君慎しめ。
右大将菅原朝臣、 右大将菅原朝臣は、
是鴻儒也。
又深知政事。
朕、選為博士、 朕、選びて博士と
多受諫正。 多く
仍不次登用、
以答其功。
加以、
朕前年立東宮之日、 朕前の年に東宮を立てし日、
只与菅原朝臣一人
論定此事。
〈女知尚侍居之〉 〈女知尚侍居れり〉
其時、
無共相議者一人。 共に
又東宮初立之後、
未経二年、 二年を
朕有譲位之意。 朕に譲位の
朕、以此意、 朕、
密々語菅原朝臣。 密々に菅原朝臣に語れり。
而菅原朝臣申云、
「如是大事、 「
自有天時。
不可忽、
不可早」云々。 早くすべからず」
仍、
或上封事、或吐直言、
不順朕言。 朕が言に
又又正論也。 又々正論なり。
至于今年、 今年に至り、
告菅原朝臣 菅原朝臣に告ぐるに
以朕志必可果之状。 朕が志必ず果たすべき
菅原朝臣、更無所申、 菅原朝臣、
事々奉行。
至于七月、 七月に至り、
可行之儀、人口云々、 行うべきの儀、
殆至於欲延引其事。
菅原朝臣申云、 菅原朝臣申して
「大事不再挙。 「大事は
事留則変生」云々。 事留むれば
遂令朕意如石不転。
惣而言之、
菅原朝臣、 菅原朝臣は、
非朕之忠臣、 朕が忠臣に
新君之功臣乎。 新君が
人功不可忘。 人功忘るべからず。
新君慎之。云々。 新君慎しめ。云々。
季長朝臣深熟公事、
長谷雄博渉経典。 長谷雄は
共大器也。 共に大器なり。
莫憚昇進。 昇進を
新君慎之。 新君慎しめ。
寛平9(897)年7月3日、宇多天皇(31歳)は皇太子敦仁親王(13歳)に譲位しました。その日に元服したばかりの新帝醍醐に対し、宇多上皇が政務について書き記して与えたのが、『
「『
さて今回取り上げるのは、現在の臣下について個別に述べた箇所です。
藤原時平・菅原道真・
大納言 | 藤原時平(27) | 北家・太政大臣基経の嫡子 |
---|---|---|
権大納言 | 源光(53) | 仁明天皇皇子 |
菅原道真(53) | 参議是善の嫡子 | |
中納言 | 藤原高藤(60) | 北家・基経の従兄弟・天皇の外祖父 |
藤原国経(70) | 北家・基経の異母兄 | |
参議 | 藤原有実(50) | 北家・基経の従兄弟 |
源直(68) | 嵯峨天皇の孫・左大臣常の子 | |
源貞恒(42) | 宇多上皇の兄 | |
藤原有穂(60) | 北家 | |
源湛(53) | 嵯峨天皇の孫・左大臣融の子 | |
源希(49) | 嵯峨天皇の孫・大納言弘の子 | |
源昇(39) | 嵯峨天皇の孫・左大臣融の子 | |
十世王(65) | 宇多上皇の伯父 |
道真を除く12名は、皆、皇族出身者と藤原北家の人間で占められていますから、道真がいかに特異な存在か明らかです。ところが、彼の上位に位置するはずの
さて、「道真を讒言して大宰府に追いやった張本人」というレッテルを貼られて久しい時平ですが、実際はどうだったのでしょうか?
父は関白太政大臣にして母は皇族(宇多上皇の従姉妹)という出自の良さを誇る彼は、27歳にして上皇に「政治に熟練した人物」と評されました。その人となりについて、『
華美に走る風潮に醍醐天皇が手を焼いていた時、時平が禁制を無視した華美な装束で参内したので、天皇は激怒し、すぐ退出するよう命じた。すると時平は居並ぶ公卿をよそに大慌てで退出し、ひと月ほど家に閉じ籠ったまま謹慎し、誰とも会おうとしなかった。この一件により、派手好みの風潮は止んだが、実は華美を戒めようとして天皇と時平が打った芝居だったそうだ。
そしてもう一話。これも『大鏡』にみえる話です。
時平は極度の笑い上戸だった。道真と共に政務を行っていた頃、時平が無理難題を言い出したので、道真は困惑した。その様子を見た書記官が「私が何とかいたしますから、まあ御覧下さい」と助け船を出した。会議が始まり、時平が議論をしていると、書記官が文挟 みに公文書を挟み、大袈裟な格好で差し出した。そして高らかに放屁したので、時平は文書も取らず大爆笑した。捧腹絶倒する時平をよそに、道真はうまく政務を進めることができたという。
おなら一つで仕事が手につかなかったと言いますから、すこぶる闊達な人物であったことが窺える話ですが、『大鏡』は、時平を「やまとだましひなどは、いみじくおはしたる」人物だと評価しています。この「やまとだましひ」なる言葉、私達がイメージする「大和魂」ではなく、「
『大鏡』の作者は「漢才が過ぎると身を滅ぼす」と考えていたようで、
ただ、明朗な若き御曹子ともなれば女性が放っておくはずがありません。廉子女王や妹温子の女房にして同母弟
もっとも、筆頭公卿の醜聞をこう堂々と書いてしまっても良いものか、そういう戸惑いは確かにあります。
そして道真については、政治にも精通した大学者ゆえに顧問とし、繰り返し諫言を受けてきたと言います。道真を重用したのは、上皇の文事好みの性格に合致した側面もありますが、即位直後に煮え湯を飲まされた
他の貴族を差し置き、宮中の序列を無視してまで高位高官に押し上げたことが、道真の失脚を招きますが、上皇が当初から過度の信頼を道真に寄せていた事を明瞭に示すのが、その後に続く立太子と譲位をめぐる挿話です。
4年前の寛平5(893)年4月、上皇は内密に道真を呼びました。その場に居合わせたのは女知(ここは良く読めない箇所なのですが、「如無」という随僧とする説もあります)と
左大臣 | 源融(72) | 寛平7年8月薨去 |
---|---|---|
右大臣 | 藤原良世(72) | 寛平8年12月引退 |
大納言 | 源能有(49) | 寛平7年6月薨去 |
中納言 | 源光(49) | 寛平9年7月現在、権大納言 |
藤原諸葛(68) | 寛平7年1月引退 | |
藤原時平(23) | 寛平9年7月現在、大納言 | |
参議 | 源直(64) | 寛平9年7月現在、参議 |
藤原有実(47) | 寛平9年7月現在、参議 | |
藤原国経(66) | 寛平9年7月現在、中納言 | |
藤原保則(69) | 寛平7年4月没 | |
藤原有穂(56) | 寛平9年7月現在、参議 | |
源湛(49) | 寛平9年7月現在、参議 | |
菅原道真(49) | 寛平9年7月現在、権大納言 |
参議7名の内、有穂・湛・道真の3人は、2月16日に任命されたばかりであり、道真は末席の公卿に過ぎませんでした。にもかかわらず、この4年間で道真は源直以下の5人を抜いて台閣第3位にまで昇進することになります。それどころか、譲位に際し道真を重用させようとしたことについて批判の声があったことは、光らが出仕を拒否する前から道真も重々承知していたことでした(『菅家後集』貞享板本増補分・675「重ねて右近衛大将を罷めんことを請ふの状」)。
道真との合議の結果、敦仁親王を皇太子とした宇多天皇ですが、それからわずか2年弱で譲位を考えました。その意を内密に漏らした相手は、やはり道真でした。わずらわしい政務から離れて仏道と風流の世界に遊びたい、そんなことを思う天皇に対し、道真は「譲位などという一大事には時機がある以上、思いつきでするものではありません!」と、即座に反対しました。書面、あるいは面と向かって反論を繰り返す道真を前に、天皇は譲位を取り下げるほかありませんでした。
ところが、それから2年も経たないうちに、天皇は再び譲位の意を漏らしました。道真の言う「天時」に叶った時期だったのか、あるいは天皇に押し切られたのか、道真は内密に準備を進めます。しかし秋7月、計画が漏れ、譲位が噂されるようになると、天皇はうろたえ、譲位を延期しようとしました。それを聞いた道真は、「中止する方が危険です」と、譲位を決行するよう進言しました。つまり、譲位のタイミングを決めたのは、道真だったのです。
次に取り上げる平
なお、付言すると、彼の兄弟である
そしてもう一人、紀長谷雄については、儒教のテキストに精通した人物と言います。彼は
季長と長谷雄を「大器」と評していますが、この言葉は、もう一度別の箇所で出てきます。
それは、「外戚に大器の事を寄すべき無きを
功績ある臣下の子孫である。
年齢は若いが、
すでに政治に熟達している。
昨年には女性問題で失敗を犯したが、
私は、早くに忘れ去って気に留めなかった。
(そして)今年の春から激励して、
公務に当たらせた。
またすでに第一の臣下である。
そこで顧問として補導に従いなさい。
新帝よ、心しなさい。
大学者である。
また深く政治について知っている。
私は、選び出して博士とし、
数多く
そこで序列によらず登用し、
その功績に応えた。
それだけでなく、
私が過去に皇太子を立てた時、
ただ菅原朝臣一人と
立太子について議論し決定した。
〈(その場には)女知と
その時、
一緒に話し合った者は(菅原朝臣以外に)誰もいなかった。
また皇太子を立ててから、
二年も経たずに、
私は譲位しようと考えた。
私は、その意を、
内密に菅原朝臣に語った。
しかし菅原朝臣は、
「このような一大事には、
おのずと天のもたらす時機というものがございます。
突然なさってはなりません、
急いではなりません」等々と答えた。
そこで、
時には密書を提出し、時には直接
私の意見に従わなかった。
(それも)また正論である。
今年になり、
菅原朝臣に
必ず(譲位しようとする)決意を果たすと告げた。
菅原朝臣は、再度反論せず、
(譲位に向け)自分がすべきことを行った。
(しかし)七月になり、
人々の間に(譲位の)儀式が行われるだろうという噂が流れ、
(私は)譲位を延期しようと思うに至った。
(しかし)菅原朝臣は、
「一大事は二度なさってはなりません。
中止すればたちまち突発的な出来事が起こります」等々と答えた。
(そして)とうとう私に不退転の決意をさせた。
総じて言えば、
菅原朝臣は、
私の忠実な臣下ではなく、
新帝の功ある臣下(と言うべき)ではないだろうか。
彼の功績を忘れてはならぬ。
新帝よ、心しなさい。等々。
(平)
(紀)長谷雄は儒学の書籍に精通している。
(彼等は)共に優れた才能の持ち主である。
昇進を
新帝よ、心しなさい。