左金吾相公、
於宣風坊臨水亭、 宣風坊の臨水亭に
餞別奥州刺史、
同賦親字 同じく親字を賦す
〈古調十四韻〉 〈古調十四韻〉
相公送君君知不 相公君を送る 君知るや
為我君聞説本因 我が
程里一千五百路
星霜四十六廻人
人是初老路何遠 人は
所以留連歳再巡
恩〓難逃寒命駕
眼球易落暗沾巾 眼珠は落ち易く
城門存慰嘱関吏 城門の
江渡平安祈水神 江渡の平安 水神に祈る
東閤昔年相遇意 東閤 昔年
東山今日独行身 東山 今日 独り行く身
非啼遠別啼懐旧 遠別を
不惜高才惜至親 高才を惜しむにあらず
相公送君説如是 相公 君を送りて
更将我意為君陳 更に我が
我試為吏讃州去 我れ
且行且泣沙浪春
一秩四年尽忠節 一秩四年 忠節を尽くし
帰来便作侍中臣 帰り来たれば
文章我謝君成業 文章 我は謝せん 君が業を成せしを
政理君嘲我化民 政理 君は
文拙政頑者多幸 文
況乎文巧政能循
在官五袴当成頌 官に在りては
帰路折轅莫患貧 路を帰るには
努力努力猶努力 努力し努力すれども
明明天子恰平均 明明たる天子
寛平4(892)年、
この人事の背景には、道真がまだ
仁和3(887)年8月26日、
それから3ケ月が経過した11月21日、宇多天皇は「
ところが、翌年早々、
宇多天皇は班子女王を母に持ち、基経とは血縁関係がありません。しかも婚姻関係すらありませんでした。ところが、問題の勅を執筆した橘広相の娘とは結婚しており、その間には息子も2人いました。広相は菅原
阿衡は
ところが、弟弟子の左少弁兼
彼等は真夏の宮中で二度にわたり激論を交わしましたが、結論は出ません。基経も一向に出仕しませんから、政務は滞ります。役人は基経の邸に赴いて書類を決裁するありさまです。左大臣
光孝天皇が即位した頃から、基経は太政大臣の権限について考えるところがありました。『職員令』に定義された職掌が、あくまでも抽象的なものだったからです。天皇は学者に意見を求め、道真も見解を述べました(『三代実録』元慶8年5月29日条)。その結果、法律に明記されていなくても実質的に官人を統率する立場にあるという結論に達しました。しかしその後に出された詔(『三代実録』元慶8年6月5日条)を読むと、基経自身の功績を鑑みて政務を総覧する権限を認めたのであって、太政大臣の立場ゆえではなかったことは明らかです。
詔勅に「三代の摂政」「摂政を辞する有り」と見えることから、瀧浪貞子氏が指摘するように(「阿衡の紛議」『日本の歴史5 平安建都』集英社、1991年)、摂政と関白の権限の違い、言い換えれば天皇が幼少か成人かで補佐役の行使できる権限が変わるという基経の考えを宇多天皇の側がきちんと認識していなかったことも事態を悪化させた一因ですが、広相は天皇の意に反する詔勅を書いたとして、罪を問われることになりました。一連の動きについては、道真の耳にも逐一届いていたようで、平季長と連名で意見を述べたことがあったとはいえ、論争に巻き込まれなかったことを喜びながらも学界の混乱ぶりに切歯扼腕していました(『菅家文草』04:261「家書を読み、歎く所有り」・263「諸の詩友を憶ひ、兼ねて前濃州田別駕に寄せ奉る」を参照)。ところが、10月になって広相が処罰されると聞き、道真はついに立ち上がりました。急いで京都に戻り、基経に意見書を提出したのです。それが「
それは「典籍の断片を綴って文章に仕立てるのが作文の常道なのに、それで処罰されては紀伝道は廃れてしまう。広相は舅また学問の師として、天皇即位に尽力したという話だし、娘は尚侍に養育された後、帝と結婚して皇子を産んでいる。功績といい親密さといい貴殿の及ぶところではなく、広相を処罰するのは決して得策でない。しかも広相は帝の意図に反した詔勅を書いたのであって、施行時に違反したのでも勝手に字句を増減したのでもないから、罪は法律家の指摘より軽いはず。どうか率先して断罪の動きを止めて欲しい」という趣旨の文章で、基経の不安の根幹にあった藤原氏の人材不足、広相と宇多天皇との親密さを明確に指摘した上で、再考を促したものです。いくら親しいとは言え、広相と基経を比較して広相の方が功労の臣であるとたたみかけるように断じたくだりなど、過激な筆致には驚かずにはいられません。そして父の弟子ながら「文人相軽んずる」関係にしか過ぎない広相のためではなく、あくまでも紀伝道全体のために申し上げると言い、紀伝道を「己が業」「家学」「家風」「祖業」「父祖名を揚ぐるの業、子孫身を出だすの道」と繰り返し繰り返し言い換えたところに、道真の紀伝道に対する意識が良く表れています。
その頃、「字句を増減した罪に準じ流罪とすべきところ、減刑規定に従い、解職と罰金刑に処する」という判決文の草案まで作られていましたが、詔が下され、広相の罪は不問に付されました。基経が一転して態度を軟化させたのは、主導権を確立した上に娘の温子が入内して女御となり、これ以上天皇と広相を抑圧する必要がなくなったからですが、道真の批判を率直に受け入れた部分も少なからずあったようです。広相も出仕を再開し、時には宴席で詩序を作ることもありましたが(『日本紀略』寛平元年7月7日・寛平2年3月3日の各条)、寛平2(890)年5月16日に亡くなります。対する基経も翌年正月13日に薨じました。ここに宇多天皇の親政が始まります。
まず寛平3年2月19日にそれまで住んでいた東宮御所から清涼殿に移り(『日本紀略』同日条)、3月19日に太政官の人事異動を行います(『公卿補任』寛平3年条)。しかし関白は置かず、左右大臣も高齢であったため、実質的には大納言源
しかし広相を弾劾した佐世を待っていたのは、報復人事でした。寛平3年正月の
ただ、いずれの場合でも、送別会で作られるのは七言絶句・七言律詩のいずれか(基本的には絶句)であって、同じ七言詩でも今回の古調詩という形式は、極めて特異なものと言わなければなりません。そこで道真は律詩56文字で言い尽くせない思いを28行196字に込め、前半は送別会を開いた理由を主催者に代わって述べ、後半で自らの経験をもとに励ますという2部構成を取っています。
まず前半で時平は初老で遠方に赴任する佐世に対し、道中の無事を祈る一方で父基経のサロンで共に過ごした時間を振り返り、「悲しいのは別れではなく昔の思い出であり、惜しいのはあなたの才能ではなく近親ゆえのことだ」と言います。「至親」は近親者を指す言葉だけに、父親の家司である以上に、もっと深い関係があったはずですが、北家の時平と式家の佐世の間には特筆すべき血縁関係はないようです。となると姻戚関係を想定すべきですが、これについても現在のところ確認できていませんので、ひとまず問題点のみを指摘しておきます。
続く後半では、道真が言葉を贈ります。6年前の仁和2(886)年、讃岐守として泣く泣く赴任したが、ひたすら政務に励んだ結果、帰京した途端に蔵人頭に抜擢された現状を語り、「文才も政事に対する能力も自分より優れたあなたならきっと功績を挙げて栄転できますから、陸奥でも頑張って下さい」と屈めた背中を叩きます。讃岐赴任を前に基経の前で泣き、再三佐世に慰められたことを思い出し、同情する立場から佐世を気遣いました。
そうして佐世は千五百里の彼方にある多賀城へ旅立ちました。それから5年の月日が流れ、宇多天皇が譲位した直後の寛平9(897)年秋、佐世は左大弁に任じられ、ようやく都に戻ることになりました。しかしはやる気持ちをよそに、彼は途中で病に倒れ、回復することなく亡くなってしまいました。享年51歳。
参議
左京五条の臨水亭で、
陸奥守藤原佐世殿の送別会を開いた際、
皆で「親」の字を韻字にして詩を作る
〈古調詩十四韻〉
参議どのがあなたを送る (その理由を)あなたは御存知でしょうか
私のためにお聞き下さい (送別会を開いた)動機をお話ししましょう
(陸奥国府のある多賀城までの)距離は千五百里の道のり
(赴任するのは)四十六歳の人
人は初老ゆえ 道の何と遠いことか
そのため(都に)留まっているうちに (新しい)年が再び巡ってきました
(しかし)優詔は逃れるわけにいかず 寒い中赴任することとなり
(別れを前に)涙は流れやすく 人知れず手拭いを濡らします
城の門で慰労するよう 関所の役人に命じ
無事に川を渡れるよう 川の神に祈ります
東閤(にいると) (私達は)昔 同席した(頃の)気持ち(と同じなのに)
東方の山(へ) (あなたは)今日 独り行く身(の上)
(私はあなたと)遠く離れるから泣くのではありません 昔を思い出して泣くのです
(私はあなたの)優れた才能ゆえに(別れを)惜しむのではありません 近親ゆえに惜しむのです
参議どのがあなたを送る (その理由についての)話は以上の通りです
さらに私の心情をあなたにお話ししましょう
私は(以前あなたと同様に)任用されて(地方)官となり 讃岐に行き
波打ち際の春に 泣く泣く赴任したのでした
(しかし)官職に就いた四年間 忠節を尽くし(て政務に励み)
帰京すればすぐ
文章については 私はあなたの功績に劣ります
政事については あなたは私の治め方を(下手だと)お笑いになるでしょう
文章は劣り政事も愚かな者(である私)さえ幸い(を受けること)が多いのですから
まして文章優れ政事も(上手に民衆を)従えられるあなたなら(帰京後はさらに帝に重じられることでしょう)
(地方)官としては(豊かになった民衆が)
(都へ)帰る道では(清貧を貫いたために)
(職務に)努力し努力しても なお努力なされませ
聡明な天子(の徳)は 平等に及ぶのですから