中国風に仙冠道服を身につけ梅の枝を手にして立つ、天神画像としては異色の絵があります。いくら定型化していても絵を見ただけで判断できる人は多くないでしょうが、
仁治二(1241)年、大宰府の崇福寺にいた円爾弁円 (聖一国師)のもとに天神が現われ、弟子入りを所望した。そこで彼が師匠の無準師範 を紹介したところ、天神は宋に渡り、径山 万寿寺にいた無準から法衣を授かった。
渡唐天神は腰に袋を下げていることが多いのですが、その中にこの法衣を入れているという設定になっています。いくら神仏習合とはいえ、神に袈裟を着せるのははばかられたと説明されてきましたが、近年袈裟を着用したものが発見されたので、必ずしもそうとは言い切れなくなってきました。
留学僧が航海のお守りとして所持することも多く、また絵の上の空白部分に賛を書くため、絵画が中心です。賛には漢詩・漢文の他、「唐衣をらで北野の神ぞとは 袖に持ちたる梅にても知れ」という和歌が用いられることもあります。
「週刊朝日百科日本の国宝」第61号のコラムでも見られますが、『国史大辞典』第10巻は380ページの後ろにモノクロで渡唐天神像を別刷16ページにわたって掲載しており、付録とは思えないほどの充実ぶりです。
さらに、最近、今泉淑夫・島尾新編『禅と天神』(吉川弘文館 2000)という論文集が出ました。図版は豊富ですが、ことのほか難解な本なので、無理して読むこともないでしょう。
ちなみに、庭園で知られる光明禅寺(福岡県太宰府市)は、円爾の弟子、菅原氏出身の鉄牛円心が開いた寺で、近くにはこの法衣を祭る伝衣塔があります。