所在地:愛知県名古屋市北区山田町
交通:名古屋市営地下鉄・大曽根駅下車
(傾向)近世は中世と違うようで違わない?
(対策)画一的な視線で物事を見るべからず。
17世紀後半に尾張藩内の学問祈祷所と名古屋城の鬼門除けの目的で、第2代藩主が太宰府天満宮から勧請しました。北野天満神社で少し触れたことですが、近世に入っても鬼門除けとは、中世の昔とさして変わらないようです。そう言えば、この神社と同時代に創建された小松天満宮も、小松城の鬼門除けなんですよねぇ。江戸城に対する上野寛永寺のように、江戸時代の宗教的防御装置は寺院というイメージがありましたが、地方においては必ずしもそうではなかったようです。
学問興隆か、さだまさしの言う「御霊信仰のしっぽ」か、あるいは別の要素が伏在するのか……。
『菅家文草』の活字本が出版されたり、長らくその内容が知られていなかった『菅家後集』が公刊されたり、『菅家伝』が再発見されたりと、江戸時代は天神信仰にとって転換期だったと思うのですが、そのことと鬼門除けに天神社を勧請することが関連するかは不明です。
臥牛が座っているのは拝殿の手前。狛犬よろしく左右対称に座っています。一方は口を開け、もう一方は閉じるということもなく、共に口を閉じ、しめ縄を背負い、同じように空を見上げています。
すぐそばに絵馬掛所(実際には「絵馬書き所」とありましたが)があり、さらにその奥には、吹きさらしになった、朱色の小さな建物が。近づいてみると、中央には回転台があり、小さな石の臥牛が大量の鈴を背負ってうずくまっています。初めて目にする光景に半ば戸惑いながら説明板を読むと、赤い紐のついた小さな鈴をこの牛に掛け、頭を志望校の方角に向けて合格を祈願するようです。方角が分からなければ願の掛けようがないと思いきや、そこは良くしたもので、この方向にどの都市があるか、梁のところにきちんと示されていました。