山陰亭

原文解説口語訳

『菅家文草』02:094

勧吟詩、寄紀秀才  詩を吟ずることを勧め、紀秀才きしうさいに寄す
〈元慶以来、有識之士、   元慶ぐわんぎやう以来、有識の士、
 或公或私、争好論議、   あるいは公に或は私に、争ひて論議を好めども、
 立義不堅、謂之痴鈍。   義を立つることかたからざれば、痴鈍ちどん ふ。
 其外只酔舞狂歌、     ほかただ酔舞狂歌し、
 罵辱凌轢而已。      罵辱凌轢ばじよくりようれきするのみ。
 故製此篇、寄而勧之。〉  ゆゑの篇をつくり、寄せて勧む。〉

風情断織璧池波  風情断織だんしょくす 璧池へきち の波
更怪通儒四面多  更に怪しぶ 通儒つうじゆの四面に多きことを
問事人嫌心転石  事を問はば 人はうたがふ 心 石をまろがすかと
論経世貴口懸河  けいを論ぜば 世は貴ぶ 口 河をくるを
応醒月下徒沈酔  月下にいたづらに沈酔することよりむべし
擬噤花前独放歌  花前に独り放歌することをつぐまんとす
他日不愁詩興少  他日うれへず 詩興の少なからんことを
甚深王沢復如何  甚深しんしん王沢わうたく また如何いかん せん

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解説

 元慶6(882)年、道真38歳の作です。当時、彼は文章博士もんじょうはかせ式部少輔しきぶのしょう を兼任し、学者として存分に活躍できる環境にありました。
 弥永貞三氏は、この時期の道真を「学才はあるが妥協性がなく、社交性の乏しい、若いくせにおつにすまして門閥が鼻につくあまり気に食わぬ男とうつったのではないか」(「菅原道真の前半生──とくに讃岐守時代を中心に──」『日本人物史大系 第一巻 古代』朝倉書店、1961年)と評しましたが、狷介な彼の一面が露呈していることは疑いようがありません。

 この詩を贈られた紀長谷雄きのはせお(845〜912)は、もともと都良香みやこのよしか(834〜879)の弟子でした。ところが、門下生同士の足の引っ張り合いが原因で師の信頼を失ってしまいます。貞観18(876)年、32歳でようやく文章生もんじょうしょうとなった後、同年生まれの俊才道真の弟子となりますが、数多の弟子達の中で目立つ存在ではありませんでした。
 それから3年後の元慶3(879)年10月8日、宮中で大極殿だいごくでんの落成を祝う宴会が開かれた際、長谷雄の詩を道真が見て感嘆したのを契機に、ようやくふたりは親交を結ぶこととなります。時に35歳。終生の親友と評されながら、両者の邂逅かいこうは意外と遅いものでした。
 文章博士の知己を得たことで、11月20日には長谷雄は早くも文章得業生もんじょうとくごうしょうに推薦されました。道真を試験官として方略試ほうりゃくしを受験し、合格するのは元慶7(883)年のことですので、この詩は長谷雄がまだ受験勉強に明け暮れていた時期のものです。

 道真は元慶元(877)年1月に民部少輔みんぶのしょうから式部少輔に転じ、10月に文章博士を兼任していますので、「元慶以来」とは彼が紀伝道の第一線に登場した時期を指します。
 「今どきの知識人といったら、空虚な議論に明け暮れるか、好き勝手に放言を繰り広げるかのどちらかだ」とは、あまりに過激すぎる口調です。しかしあえて先入観を持たずに詩本文に目を向ければ、道真が嫌悪し侮蔑した対象がおのずと見えてきます。それは博学と称して世間におもねり、ぺらぺらとまくし立てる連中。
 道真にとって、詩は四季が順当に巡ることを通じて帝王の徳を称讃しつつも、時として君主の得失をいさめるものであり、ただ美辞麗句を連ねれば良いというものではありませんでした。そして中国では、君主のもたらす王沢おうたくきた時こそ、詩が滅ぶ時とされていました。「天子の恩徳はとても深いから、自然を相手に騒がなくても詩は作れる」という道真の言葉は、この認識を前提としています。

 随分後の話になりますが、宇多天皇に近侍していた時期の作品に、その傾向を示すものがあります。
 05:377「勅有りて、上巳桜下の御製の詩を視るを賜ひ、...」では、天皇の詩を賞賛しておきながら、最後に「花前に腸断ゆる人」の存在を想定します。また05:384「春、桜花を惜しむ」の詩序では、桜だけでなく松や竹をも愛でて欲しいと述べています。これらはやみくもに花前月下に酔いしれる態度とは一線を画するものでした。

 ところで、この元慶6年というのは、道真にとって、学生からの不満の声に直面して父の忠告の重さを思い知らされた年であり、大納言藤原冬緒ふゆお を匿名の詩でそしったという疑惑を掛けられた年でした(02:098「思ふ所有り」・02:087「博士難」)。翌年に作られた02:118「詩情怨」には、当事者への影響などお構いなしに飛び交う噂の無責任さに対する道真の憤懣が込められていますが、胸中をぶちまけた詩を贈られたのは、菅野惟肖すがののこれすえと長谷雄でした。

 古くからの友人ではない長谷雄がここまで道真の信頼を得たのは、詩才に加えて、世間に波風を立てたがらない慎重な性格もあったようです。「人の知をたのかれ、おのれの賢を誇るかれ、いましめとつつしみとをおもひ、もつて身のまつたきを思ふべし」(『朝野群載』巻1「書紳辞」)というのが彼のモットーで、阿衡の紛議の時も主流派の側に立ちました。
 それどころか、昌泰4(901)年に道真の左降を知った宇多法皇が宮中に駆け付けた際、醍醐天皇との面会を阻止した人物として、『江談抄』は藤原菅根すがね の名を挙げますが、『扶桑略記』では長谷雄となっています。菅根は蔵人頭くろうどのとうの立場から法皇と天皇のパイプを完全に遮断し、法皇に近しい長谷雄は直接説得を終日続けたようで、左大臣時平の圧力があったとは言え、愛弟子とて危急存亡の秋を救ってくれるというわけではなかったのです。

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口語訳

詩を詠むことを勧め、文章得業生もんじょうとくごうしょう紀(長谷雄)君に贈る
元慶がんぎょう年間以降、知識人は、
 公私を問わず、こぞって議論を好むが、
 基本がしっかりしていないから、馬鹿げている。
 他の者はただ酔っぱらって踊り歌い、
 (他人を)侮辱して踏みにじるばかりだ。
 そこでこの一篇を作り、贈って(詩を詠むよう)勧める。〉

学問を中途で投げ出した(者が立てる) 学界周辺の波
不思議なことだ 大学者が(これほど)四方に多いとは
物事について質問すると ころころと心変わりするのではと 人は疑い
儒学について議論すれば 立て板に水でまくし立てる人間を 世間は貴ぶ
月の下でやたら酔っぱらうことから目を覚ませ
花の前でひとり下手くそに歌う唇を閉じよ
心配することはない (そんなことをしては)詩を作る動機が乏しくなるなどと
天子の恩徳はとても深いのだから(詩が滅ぶことはあるまい)

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