勧吟詩、寄紀秀才 詩を吟ずることを勧め、
〈元慶以来、有識之士、
或公或私、争好論議、
立義不堅、謂之痴鈍。 義を立つること
其外只酔舞狂歌、
罵辱凌轢而已。
故製此篇、寄而勧之。〉
風情断織璧池波 風情
更怪通儒四面多 更に怪しぶ
問事人嫌心転石 事を問はば 人は
論経世貴口懸河
応醒月下徒沈酔 月下に
擬噤花前独放歌 花前に独り放歌することを
他日不愁詩興少 他日
甚深王沢復如何
元慶6(882)年、道真38歳の作です。当時、彼は
弥永貞三氏は、この時期の道真を「学才はあるが妥協性がなく、社交性の乏しい、若いくせにおつにすまして門閥が鼻につくあまり気に食わぬ男とうつったのではないか」(「菅原道真の前半生──とくに讃岐守時代を中心に──」『日本人物史大系 第一巻 古代』朝倉書店、1961年)と評しましたが、狷介な彼の一面が露呈していることは疑いようがありません。
この詩を贈られた
それから3年後の元慶3(879)年10月8日、宮中で
文章博士の知己を得たことで、11月20日には長谷雄は早くも
道真は元慶元(877)年1月に
「今どきの知識人といったら、空虚な議論に明け暮れるか、好き勝手に放言を繰り広げるかのどちらかだ」とは、あまりに過激すぎる口調です。しかしあえて先入観を持たずに詩本文に目を向ければ、道真が嫌悪し侮蔑した対象がおのずと見えてきます。それは博学と称して世間におもねり、ぺらぺらとまくし立てる連中。
道真にとって、詩は四季が順当に巡ることを通じて帝王の徳を称讃しつつも、時として君主の得失を
随分後の話になりますが、宇多天皇に近侍していた時期の作品に、その傾向を示すものがあります。
05:377「勅有りて、上巳桜下の御製の詩を視るを賜ひ、...」では、天皇の詩を賞賛しておきながら、最後に「花前に腸断ゆる人」の存在を想定します。また05:384「春、桜花を惜しむ」の詩序では、桜だけでなく松や竹をも愛でて欲しいと述べています。これらはやみくもに花前月下に酔いしれる態度とは一線を画するものでした。
ところで、この元慶6年というのは、道真にとって、学生からの不満の声に直面して父の忠告の重さを思い知らされた年であり、大納言藤原
古くからの友人ではない長谷雄がここまで道真の信頼を得たのは、詩才に加えて、世間に波風を立てたがらない慎重な性格もあったようです。「人の知を
それどころか、昌泰4(901)年に道真の左降を知った宇多法皇が宮中に駆け付けた際、醍醐天皇との面会を阻止した人物として、『江談抄』は藤原
詩を詠むことを勧め、
〈
公私を問わず、こぞって議論を好むが、
基本がしっかりしていないから、馬鹿げている。
他の者はただ酔っぱらって踊り歌い、
(他人を)侮辱して踏みにじるばかりだ。
そこでこの一篇を作り、贈って(詩を詠むよう)勧める。〉
学問を中途で投げ出した(者が立てる) 学界周辺の波
不思議なことだ 大学者が(これほど)四方に多いとは
物事について質問すると ころころと心変わりするのではと 人は疑い
儒学について議論すれば 立て板に水でまくし立てる人間を 世間は貴ぶ
月の下でやたら酔っぱらうことから目を覚ませ
花の前でひとり下手くそに歌う唇を閉じよ
心配することはない (そんなことをしては)詩を作る動機が乏しくなるなどと
天子の恩徳はとても深いのだから(詩が滅ぶことはあるまい)