余、
近叙「詩情怨」一篇、 近ごろ「詩情怨」一篇を
呈菅十一著作郎。 菅十一
長句二首、偶然見〓。
更依本韻、重答以謝
生涯我是一塵埃 生涯 我は
宿業頻遭世俗猜
東閤含将真咳唾
北溟売与偽珍〓
三条印綬依恩佩 三条の
九首詩篇奉勅裁 九首の詩篇は勅を
〈来章曰、 〈
「蒼蠅旧讃元台弁 「
白体新詩大使裁」。 白体の新詩 大使
注云、 注に
「近来有聞。 「
裴〓云、
『礼部侍郎、 『
得白氏之体』」。 白氏が体を得たり』」と。
余、読此二句、 余、
感上句之不欺 上句の
兼下文之多詐。 兼ねて下文の
〓和之次、
聊述本情。
余、 余、
心無一徳、 心に一徳無けれども、
身有三官。 身に三官有り。
惣而言之、
事縁恩奨。 事は
更被勅旨、
仮号礼部侍郎、 仮に礼部侍郎と
与渤海入覲大使裴〓 渤海より
相唱和。
詩惣九首、 詩は
追以慙愧。 追て
故有此四句。〉
凡眼昏迷誰料理
丹鴉鏡掛碧霄臺
元慶7(883)年、道真から「詩情怨」(『菅家文草』02:118)を贈られた
『大漢和辞典』などの漢和辞典によれば、「長句」は唐代の七言古調詩を指します。また、白居易は七言古調詩と七言律詩を総称して「長句」と呼んでいます(『田氏家集注』解説)。しかし日本においては、「長句」は七言八句の詩に限定されるようです。
作詩手引書『作文大体』のうち、
「詩情怨」をめぐって道真が惟肖に贈った詩は全部で4首ありますが(『菅家文草』02:119〜121)、『作文大体』の記述(第五詩病)を参考に詳しく検討したところ、この詩を含めた3首(02:119〜120)は確実に七言律詩です。しかし残りの1首(02:121)は、七言律詩か七言古調詩か、判断に迷うところです。と言いますのも、七言律詩のはずが、
7更聞高才一官老 ●●○○●○●
8孟堅著作兼蘭臺 ●○●●○○◎ (○:平声、●:仄声、◎:押韻)
と、第7句第6字「官」が
10句以上の詩については、排律か古調詩か見極めるために随分昔に調べたことがありますが、8句以下でも、きちんと作詩規則に従っているか、注意する必要がありそうです。もっとも、どこまで規則違反を許すかは人によって意見が異なるところで、1世紀あまり後の長徳3(997)年、文章生選抜試験の判定基準をめぐって
「本韻」は「
昨年の匿詩事件といい、今年の
人生の険難さを思い知らされた道真ですが、道真の無実を信じていたのは惟肖だけではありませんでした。太政大臣藤原
この詩には長い自注があり、詩の背景について詳しく説明しています。惟肖は詩の第5句・第6句およびその自注において、匿詩を作ったという疑惑は濡れ衣だと基経が認めたこと、渤海大使が道真を「
昨年11月、渤海からの使節団が加賀国に来着しました。朝廷は辞令を発し、送迎や接待の担当者を決定してゆきます。道真も1月11日に
渤海(698〜926)は、朝鮮半島北部にあった
属国が宗主国に使節団を送り、宗主国はその贈り物を受け取って彼等を接待し、より多くの贈り物を下賜する、というのが外交の基本形なので、交換貿易を行うには外交を確立する必要があります。そこには上下関係はあっても、対等な関係は存在しません。共に唐へ使節団を派遣する立場上、日本と渤海は兄弟国なのですが、体面より貿易の実を選択した渤海は、「ミニ中国」日本に対し、臣従の礼を取りました。渤海が日本へ「
一行は4月28日に平安京に到着し、
さて道真と忠臣はと言いますと、以上に紹介した歓迎式典の他にも、たびたび鴻臚館を訪れ、大使と親交を深めていました。
渤海は国内有数の文人を中心に使節団を編成し、日本も一流の文人を選びます。詩の完成度でお互いの文化水準を判断されてしまうからです。忠臣は24年前にも文才を見込まれて抜擢され、今回は2度目です。本当は道真も12年前にその機会があったのですが、母親が急死したために勅書2篇を書いたにとどまり、使節団と直接会うことはありませんでした。初めての大舞台を前に、道真は忠臣と打ち合わせを行い、その場でしか詩を作らないことに決めました。その真っ向勝負は、渤海使が入京した翌日の4月29日、紀長谷雄らと共に鴻臚館に赴き、「行(下平声七陽韻)」を韻字に、めいめいが本韻によって詩を詠み合うことから始まりました(『田氏家集』02:108〜109・『菅家文草』02:104〜105)。道真と同世代の大使は、噂通り詩作の速い人で、道真達は素晴らしい才能に敬意を示しつつ、やり取りは夕方まで続きました。5月5日の夜は、雨が上がるのを待って昼間の失態を侘びに大使の部屋を訪れ、蒸し暑さを感じながら深夜まで酒を酌み交わしました(『田氏家集』02:110・『菅家文草』02:106)。また別の日にも月を眺めながら酒杯を傾けます(『田氏家集』02:111・『菅家文草』02:107)。ついには酔った勢いで道真が服を脱ぎ、詩を添えて友情の証として大使に贈りました(『田氏家集』02:112〜113・『菅家文草』02:108〜110)。11日は送別会です。わずか12日間で心を許し合った異国の友ともう二度と会えないと思うと、夜まで名残りは尽きませんでした(『田氏家集』02:114・『菅家文草』02:111〜112)。
この期間に詠まれた詩は、最も公式な形式とされる七言律詩を中心に全部で58首ありましたが、忠臣の作は『田氏家集』に7首、道真の作は『菅家文草』に9首が収められています。紀長谷雄など他の人物の作も含め、道真の手によって『鴻臚贈答詩』という一巻の書にまとめられられましたが、こちらは序文(『菅家文草』07:555「『鴻臚贈答詩』の序」)を除き現存していません。ただ、道真が詠んだのが『菅家文草』に残る9首だけであったことは、自注に記された通りです。
即吟に優れた大使に対し、その場で詩を詠み、推敲もせずに示したことが、「下手」という下馬評につながったことは否めず、道真も完成度の低さを認めているようです。ところが、ここまで謙遜の言葉を重ねてきて、突然最後の2句で「天には真実を写し出す鏡があるのに、低俗な人間は真実を見極められないらしい」と怒りをあらわにします。注と詩の温度差に驚きを禁じえませんが、これは「詩情怨」の「天の鏡は昔から公正明大だが、世の中は人の良し悪しを見分ける目がないようだ」という皮肉を繰り返したもので、世間の定見のなさに、よほど腹が据えかねていたものと思われます。もう少し惟肖の詩が残っていれば、道真をどのようになだめすかしたか分かるだけに、現存していないのは本当に惜しいことです。
ところで、惟肖の詩に「蒼蠅旧讃元台弁」とありますが、「元台」は参議のことです。当時の参議は源冷(仁明天皇皇子)・忠貞王(桓武天皇の孫)・藤原諸葛(南家)・藤原山陰(北家)・藤原国経(基経の兄)・藤原有実(基経の従兄弟)の6名ですが、道真と何らかの関係のある人物を挙げるとすれば、この年に開いた送別会に道真を招いた(02:103)源冷、6年前に辞表(09:587)を、半年後には願文(12:655)を代作させた藤原山陰の両名が考えられます。しかしこの句に対し、道真は「東閤含将真咳唾」と応じており、中傷に対して言葉を掛けたのは「東閤」の人間ということになります。
東閤については「相国の東閤の餞席」で取り上げましたが、基経のサロンを指します。つまり基経を指していると思われますが、彼はあくまでも太政大臣であり、参議ではありません。そこで川口久雄は日本古典文学大系において、「元台」は「三公」と同じ意味を持つ「三台」の誤写ではないかという説を出しました。比較的近い時代の「三台」の用例(『江吏部集』02:091・03:111)には太政大臣の意味で用いている例はありませんが、鎌倉末期の応長元(1311)年に製作された『松崎天神縁起』巻6の詞書では、右大臣道真の左遷を「三台の相を改めて、大宰の帥に遷され給ふ」と述べていますから、大臣を指すさらに古い用例があるかも知れません。
再会は期し難いと心の底から思った彼我の詩人達ですが、12年後の寛平6(894)年、裴〓は渤海大使として再び日本の土を踏みました。忠臣は亡くなったものの、道真と長谷雄は健在で、彼らは短期間の滞在を惜しむように旧交を温めました。さすがに3度目の来日はありませんでしたが、彼の消息はもう少し追うことができます。
さらに14年が経過した延喜8(908)年、彼の息子が渤海大使として日本を訪れました。その帰国に際し、宇多法皇は父親に宛てて手紙をことづけています(『本朝文粋』07:182、紀長谷雄が代作)。父親が最初に来日した時は40歳前でしたから、60歳過ぎになっていたものと思われます。鴻臚館には菅原淳茂(道真の息子)も訪れており(『扶桑集』07「初めて渤海裴大使に逢ひ、感有りて吟ず」)、道真の晩年についても息子を通じて彼の耳に届いたことでしょう。むろん彼がいつ没したかは不明ですが、息子があと2回日本を訪れたことと、延長4(926)年、渤海が滅亡したことだけは確かです。
私は、
最近(自分の気持ちを)「詩情怨」一篇に綴り、
(彼は)律詩二首で、思いがけなくもお答えして下さった。
(そこで私は)改めて本韻によ(って詩を作)り、再度お返事を差し上げて(彼に)感謝する
一生 私はこのように 穢れたこの世を生きるのだろう
前世の悪行ゆえに 何度も世間から疑われるのだ
東閤(の主人である太政大臣藤原基経殿)は 本心からの言葉を掛けて下さった(匿詩の作者ではないと信じて下さった)
北海(から来た渤海大使)は 珍しい宝玉と称して偽物を売り与えた(「白居易のような詩だ」とお世辞を口にした)
三つの官職は(帝の御)恩によって任じられ
九首の詩篇は
〈頂いた詩の一節にはこうありました。
「讒言する
白居易の詩風の新しい詩は (渤海)大使が評価した」
(その)自注にはこうありました。
「最近耳にした話ですが、
(渤海大使)
『
白居易の詩風を会得されている』と言ったそうですね。」
私は、この(「蒼蠅」以下の)二句を読み、
上の句が嘘でないことと
下の句が偽りばかりであることを感じました。
詩をやり取りするついでに、
少々本心を述べようと思います。
私は、
心には一つも徳がありませんが、
身には(
総じて言えば、
(これらの)事は(帝の)恩情の賜物です。
さらに帝の御命令を受け、
仮に治部大輔と呼ばれ、
渤海から入朝した大使裴〓と
詩を贈答させられました。
(私が詠んだ)詩は全部で九首、
振り返れば恥ずかしい出来でした。
そのためこの(「東閤」以下の)四句があるのです。〉
見識の低い人間は 道理も分からず惑うから うまく処置できないのだ(価値を見分けられないのだ)
太陽は (真実を写す)鏡を 蒼天の