山陰亭

原文解説口語訳

『菅家文草』02:119(2)

余、          われ
近叙「詩情怨」一篇、  近ごろ「詩情怨」一篇をべ、
呈菅十一著作郎。    菅十一著作郎ちよさくらうに呈す。
長句二首、偶然見〓。  長句ちやうく二首、偶然にむくいらる。
更依本韻、重答以謝   さら本韻ほんゐんり、重ねて答へ以て謝す

生涯我是一塵埃  生涯 我はく いつ塵埃ぢんあい
宿業頻遭世俗猜  宿業しゆくごふ しきりにふ 世俗のうたがひ
東閤含将真咳唾  東閤とうかふは含みおくる まこと咳唾がいだ
北溟売与偽珍〓  北溟ほくめいは売り与ふ 偽りの珍〓ちんくわい
三条印綬依恩佩  三条の印綬いんじゆは恩にりて
九首詩篇奉勅裁  九首の詩篇は勅をたてまつりててり

〈来章曰、       〈来章らいしやういはく、
 「蒼蠅旧讃元台弁    「蒼蠅さうようの旧讃 元台げんたいわきま
  白体新詩大使裁」。   白体の新詩 大使はかれり」と。
 注云、         注にはく、
 「近来有聞。      「近来ちかごろ聞きしこと有り。
  裴〓云、        裴〓はいてい云はく、
  『礼部侍郎、      『礼部侍郎れいぶじらう は、
   得白氏之体』」。    白氏が体を得たり』」と。
 余、読此二句、     余、の二句を読み、
 感上句之不欺      上句のあざむかざることと
 兼下文之多詐。     兼ねて下文のいつはり多きことを感ず。
 〓和之次、       〓和しうわ ついでに、
 聊述本情。       いささ本情ほんせいを述べん。
 余、          余、
 心無一徳、       心に一徳無けれども、
 身有三官。       身に三官有り。
 惣而言之、       すべて言はば、
 事縁恩奨。       事は恩奨おんしやうる。
 更被勅旨、       さら勅旨ちよくしかうむり、
 仮号礼部侍郎、     仮に礼部侍郎とばれ、
 与渤海入覲大使裴〓   渤海より入覲にふきんせし大使裴〓はいてい
 相唱和。        相唱和あひしようわせられたり。
 詩惣九首、       詩はすべて九首、
 追以慙愧。       追てもつ慙愧ざんき せり。
 故有此四句。〉     ゆゑの四句有り。〉

凡眼昏迷誰料理  凡眼ぼんがん 昏迷こんめいすれば 誰か料理れうり せん
丹鴉鏡掛碧霄臺  丹鴉たんあ  鏡掛けたり 碧霄へきせうたい

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解説

 元慶7(883)年、道真から「詩情怨」(『菅家文草』02:118)を贈られた菅野惟肖すがののこれすえは、七言律詩2首を詠み、道真に届けました。道真はその心遣いに感謝し、本韻によって七言律詩を2首作り、惟肖に贈りました。その第2首がこの詩です。

 『大漢和辞典』などの漢和辞典によれば、「長句」は唐代の七言古調詩を指します。また、白居易は七言古調詩と七言律詩を総称して「長句」と呼んでいます(『田氏家集注』解説)。しかし日本においては、「長句」は七言八句の詩に限定されるようです。
 作詩手引書『作文大体』のうち、大江朝綱おおえのあさつな(886〜957)が執筆した箇所に、「四韻(八句)」からなる詩が「長句」だとありますが(第四句名)、忠臣や道真が「長句」と呼ぶ実例は、それを裏書きします(『田氏家集』01:035・02:088・02:093・『菅家文草』02:096・02:104・02:112・02:120・03:234・04:291・04:306)。
 「詩情怨」をめぐって道真が惟肖に贈った詩は全部で4首ありますが(『菅家文草』02:119〜121)、『作文大体』の記述(第五詩病)を参考に詳しく検討したところ、この詩を含めた3首(02:119〜120)は確実に七言律詩です。しかし残りの1首(02:121)は、七言律詩か七言古調詩か、判断に迷うところです。と言いますのも、七言律詩のはずが、

  7更聞高才一官老 ●●○○●
  8孟堅著作兼蘭臺 ●○●●○○◎ (○:平声、●:仄声、◎:押韻)

と、第7句第6字「官」が鶴膝かくしつ(奇数句の第2字と第6字の四声が異なる=二六対を守らない)、第8句が下三連かさんれん(句末の3字の四声が同じ)と、最終2句が近体詩きんたいしの作詩規則から外れているためです。
 10句以上の詩については、排律か古調詩か見極めるために随分昔に調べたことがありますが、8句以下でも、きちんと作詩規則に従っているか、注意する必要がありそうです。もっとも、どこまで規則違反を許すかは人によって意見が異なるところで、1世紀あまり後の長徳3(997)年、文章生選抜試験の判定基準をめぐって大江匡衡おおえのまさひら紀斉名きのただなの間で一大論争が巻き起こった(『本朝文粋』07:176〜179)ほどなのですが。

 「本韻」は「次韻 じいん」に同じく、元の詩と同じ韻字を同じ順番で用いること。韻字で記述を制限されながら相手の心を汲まなければならないだけに、贈答する詩としては最も手の込んだ、丁寧なものになります。この場合、全56字中、第1句末・第2句末・第4句末・第6句末・第8句末の5箇所に全く同じ文字を用いています。

 昨年の匿詩事件といい、今年の渤海使ぼっかいしとの応酬詩といい、悪評ばかり続いたことを踏まえ、これからも罵詈雑言の嵐の中を進んでいかなければならないと道真は述べ、その原因を前世で成した悪業に求めます。
 人生の険難さを思い知らされた道真ですが、道真の無実を信じていたのは惟肖だけではありませんでした。太政大臣藤原基経もとつねもそうでした。基経は島田忠臣しまだのただおみ良臣よしおみ兄弟に目を掛けたように、紀伝道の御曹子にも温かい視線を注いでいたようです。その交際は、11年前の貞観14(872)年以降、辞表や願文を代作させたことに始まり、自宅で詩宴に参加させたり講義を行わせることもありました。讃岐へ赴任する道真に基経が言葉を掛けた(03:184「予外吏と為れども、幸ひに内宴に装束の間に侍し、...」)のも、阿衡の紛議に際して自重を求める意見書(『政事要略』巻30「昭宣公に奉ずる書」)を道真が基経に叩き付けることができたのも、このような両者の親交あってのことです。そして大納言を匿名の詩で中傷したという疑惑が道真の身に降り掛かった時も、はっきりと否定しました。この事件で道真が進退を問われなかったのは、理を重んじる基経の態度によるところが大きいと思います。

 この詩には長い自注があり、詩の背景について詳しく説明しています。惟肖は詩の第5句・第6句およびその自注において、匿詩を作ったという疑惑は濡れ衣だと基経が認めたこと、渤海大使が道真を「白居易はくきょいの詩風を会得した人物」と誉めたことを記しました。それを読んだ道真は、詩の第3句・第4句で、「前者は真実でも、後者はお世辞だ」と答えます。そして何の徳もない自分が、式部少輔しきぶのしょう文章博士もんじょうはかせ加賀権守かがごんのかみという紀伝道の第一人者にふさわしい官職を占めているのは、ひとえに帝(陽成天皇)の恩恵によるもので、さらにみことのり(天皇の命令)によって仮に治部大輔じぶのたいふ (外務次官)に任じられ渤海使を接待することになったと言います。

 昨年11月、渤海からの使節団が加賀国に来着しました。朝廷は辞令を発し、送迎や接待の担当者を決定してゆきます。道真も1月11日に加賀権守かがごんのかみに任じられ、在京のまま事務作業に当たりました。4月21日、入京を目前にして道真は治部大輔、島田忠臣は玄蕃頭げんばのかみ(渉外部長官)の仕事を代行するよう命じられました。橘休陰が治部大輔であったにも関わらず、ことさらに道真を治部大輔とし、美濃介みののすけとして現地に赴任していた忠臣を呼び戻したのは、ひとえに渤海大使裴〓はいていと詩の応酬をさせるためでした。
 渤海(698〜926)は、朝鮮半島北部にあった高句麗こうくりの王族が朝鮮半島北部から中国東北部に建てた律令国家で、その版図は日本と日本海を挟んだ真向かいに位置します。古代東アジアにおいて、中国こそが世界の中心であり、自国をどれだけ中国化できているかが文化水準を測る物差しになっていましたから、諸外国同様、渤海も唐王朝に使節団を派遣していました。それが日本にも使節団を送るようになったのは、軍事提携を目的としたものでした。しかし次第に外交に名を借りた交換貿易に変質し、平安初期には硬骨漢藤原緒嗣 おつぐから商売人呼ばわりされるに至ります。
 属国が宗主国に使節団を送り、宗主国はその贈り物を受け取って彼等を接待し、より多くの贈り物を下賜する、というのが外交の基本形なので、交換貿易を行うには外交を確立する必要があります。そこには上下関係はあっても、対等な関係は存在しません。共に唐へ使節団を派遣する立場上、日本と渤海は兄弟国なのですが、体面より貿易の実を選択した渤海は、「ミニ中国」日本に対し、臣従の礼を取りました。渤海が日本へ「入覲にゅうきん(入朝)」する「蕃客」だとは、道真に限らず平安貴族に共通する認識ですが(『経国集』巻11・滋野貞主「『打毬を観る』に和し奉る」・『三代実録』元慶6年11月27日条・『扶桑集』巻7贈答部等)、接待に莫大な費用がかかるため、国家財政を悪化させる一因ともなりました。度重なる来日に手を焼いた朝廷は、12年に1回だけ入朝を許可し、他は一切拒絶するという強硬方針を打ち出します。そのため、前回の使節団は入京を許されませんでしたが、今回は、前々回から12年目ということで許可が下りました。

 一行は4月28日に平安京に到着し、鴻臚館こうろかん(迎賓館)に入りました。5月12日までの2週間、大内裏と鴻臚館で大規模な歓迎式典が繰り広げられます。4月29日・翌5月1日と、役人が鴻臚館に赴き、一行を慰問します。5月2日、末端の官人に至るまで大勢の人々が見守る中、渤海国王からの文書と献上品が贈呈されました。翌日は天皇が出席しての宴会です。渤海使ひとりひとりに位階が授けられ、148人もの女性が舞い、酒食が供されました。5日は年中行事の一つ端午節会たんごのせちえに当たり、流鏑馬などを行う予定でしたが、大雨により延期されるはずでした。ところが、手違いで担当者(坂上茂樹と紀長谷雄)が使節団を会場に案内してしまったため、無理矢理開催することになり、武官を乗せた馬は泥の海を駆ける羽目になりました。7日は大使が個人的に品物を献上した後、内蔵寮くらりょうの役人が鴻臚館に赴いて翌日まで交易を行いました。10日は規模を縮小して再び宴会です。急遽世話役を任された藤原良積に大使が詩を贈ろうとしたところ、良積は文事に疎いために逃げてしまったという不祥事もありました。そして12日、鴻臚館で渤海国王への勅書と渤海政府へのちょう(公文書の一種)が渡され、公式行事が終了しました。この日に使節団は平安京を離れ、帰国の途に着きました。

 さて道真と忠臣はと言いますと、以上に紹介した歓迎式典の他にも、たびたび鴻臚館を訪れ、大使と親交を深めていました。
 渤海は国内有数の文人を中心に使節団を編成し、日本も一流の文人を選びます。詩の完成度でお互いの文化水準を判断されてしまうからです。忠臣は24年前にも文才を見込まれて抜擢され、今回は2度目です。本当は道真も12年前にその機会があったのですが、母親が急死したために勅書2篇を書いたにとどまり、使節団と直接会うことはありませんでした。初めての大舞台を前に、道真は忠臣と打ち合わせを行い、その場でしか詩を作らないことに決めました。その真っ向勝負は、渤海使が入京した翌日の4月29日、紀長谷雄らと共に鴻臚館に赴き、「行(下平声七陽韻)」を韻字に、めいめいが本韻によって詩を詠み合うことから始まりました(『田氏家集』02:108〜109・『菅家文草』02:104〜105)。道真と同世代の大使は、噂通り詩作の速い人で、道真達は素晴らしい才能に敬意を示しつつ、やり取りは夕方まで続きました。5月5日の夜は、雨が上がるのを待って昼間の失態を侘びに大使の部屋を訪れ、蒸し暑さを感じながら深夜まで酒を酌み交わしました(『田氏家集』02:110・『菅家文草』02:106)。また別の日にも月を眺めながら酒杯を傾けます(『田氏家集』02:111・『菅家文草』02:107)。ついには酔った勢いで道真が服を脱ぎ、詩を添えて友情の証として大使に贈りました(『田氏家集』02:112〜113・『菅家文草』02:108〜110)。11日は送別会です。わずか12日間で心を許し合った異国の友ともう二度と会えないと思うと、夜まで名残りは尽きませんでした(『田氏家集』02:114・『菅家文草』02:111〜112)。
 この期間に詠まれた詩は、最も公式な形式とされる七言律詩を中心に全部で58首ありましたが、忠臣の作は『田氏家集』に7首、道真の作は『菅家文草』に9首が収められています。紀長谷雄など他の人物の作も含め、道真の手によって『鴻臚贈答詩』という一巻の書にまとめられられましたが、こちらは序文(『菅家文草』07:555「『鴻臚贈答詩』の序」)を除き現存していません。ただ、道真が詠んだのが『菅家文草』に残る9首だけであったことは、自注に記された通りです。

 即吟に優れた大使に対し、その場で詩を詠み、推敲もせずに示したことが、「下手」という下馬評につながったことは否めず、道真も完成度の低さを認めているようです。ところが、ここまで謙遜の言葉を重ねてきて、突然最後の2句で「天には真実を写し出す鏡があるのに、低俗な人間は真実を見極められないらしい」と怒りをあらわにします。注と詩の温度差に驚きを禁じえませんが、これは「詩情怨」の「天の鏡は昔から公正明大だが、世の中は人の良し悪しを見分ける目がないようだ」という皮肉を繰り返したもので、世間の定見のなさに、よほど腹が据えかねていたものと思われます。もう少し惟肖の詩が残っていれば、道真をどのようになだめすかしたか分かるだけに、現存していないのは本当に惜しいことです。

 ところで、惟肖の詩に「蒼蠅旧讃元台弁」とありますが、「元台」は参議のことです。当時の参議は源冷(仁明天皇皇子)・忠貞王(桓武天皇の孫)・藤原諸葛(南家)・藤原山陰(北家)・藤原国経(基経の兄)・藤原有実(基経の従兄弟)の6名ですが、道真と何らかの関係のある人物を挙げるとすれば、この年に開いた送別会に道真を招いた(02:103)源冷、6年前に辞表(09:587)を、半年後には願文(12:655)を代作させた藤原山陰の両名が考えられます。しかしこの句に対し、道真は「東閤含将真咳唾」と応じており、中傷に対して言葉を掛けたのは「東閤」の人間ということになります。
 東閤については「相国の東閤の餞席」で取り上げましたが、基経のサロンを指します。つまり基経を指していると思われますが、彼はあくまでも太政大臣であり、参議ではありません。そこで川口久雄は日本古典文学大系において、「元台」は「三公」と同じ意味を持つ「三台」の誤写ではないかという説を出しました。比較的近い時代の「三台」の用例(『江吏部集』02:091・03:111)には太政大臣の意味で用いている例はありませんが、鎌倉末期の応長元(1311)年に製作された『松崎天神縁起』巻6の詞書では、右大臣道真の左遷を「三台の相を改めて、大宰の帥に遷され給ふ」と述べていますから、大臣を指すさらに古い用例があるかも知れません。

 再会は期し難いと心の底から思った彼我の詩人達ですが、12年後の寛平6(894)年、裴〓は渤海大使として再び日本の土を踏みました。忠臣は亡くなったものの、道真と長谷雄は健在で、彼らは短期間の滞在を惜しむように旧交を温めました。さすがに3度目の来日はありませんでしたが、彼の消息はもう少し追うことができます。
 さらに14年が経過した延喜8(908)年、彼の息子が渤海大使として日本を訪れました。その帰国に際し、宇多法皇は父親に宛てて手紙をことづけています(『本朝文粋』07:182、紀長谷雄が代作)。父親が最初に来日した時は40歳前でしたから、60歳過ぎになっていたものと思われます。鴻臚館には菅原淳茂(道真の息子)も訪れており(『扶桑集』07「初めて渤海裴大使に逢ひ、感有りて吟ず」)、道真の晩年についても息子を通じて彼の耳に届いたことでしょう。むろん彼がいつ没したかは不明ですが、息子があと2回日本を訪れたことと、延長4(926)年、渤海が滅亡したことだけは確かです。

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口語訳

私は、
最近(自分の気持ちを)「詩情怨」一篇に綴り、
大内記だいないき菅野惟肖すがののこれすえ殿に贈呈した。
(彼は)律詩二首で、思いがけなくもお答えして下さった。
(そこで私は)改めて本韻によ(って詩を作)り、再度お返事を差し上げて(彼に)感謝する

一生 私はこのように 穢れたこの世を生きるのだろう
前世の悪行ゆえに 何度も世間から疑われるのだ
東閤(の主人である太政大臣藤原基経殿)は 本心からの言葉を掛けて下さった(匿詩の作者ではないと信じて下さった)
北海(から来た渤海大使)は 珍しい宝玉と称して偽物を売り与えた(「白居易のような詩だ」とお世辞を口にした)
三つの官職は(帝の御)恩によって任じられ
九首の詩篇はみことのりを承って綴った

〈頂いた詩の一節にはこうありました。
 「讒言するやからの(私が良く出来た匿詩を作ったという)古い褒め言葉は太政大臣閣下が峻別され
  白居易の詩風の新しい詩は (渤海)大使が評価した」
 (その)自注にはこうありました。
 「最近耳にした話ですが、
  (渤海大使)裴〓はいていが、
  『治部大輔じぶのたいふ (菅原道真)殿は、
   白居易の詩風を会得されている』と言ったそうですね。」
 私は、この(「蒼蠅」以下の)二句を読み、
 上の句が嘘でないことと
 下の句が偽りばかりであることを感じました。
 詩をやり取りするついでに、
 少々本心を述べようと思います。
 私は、
 心には一つも徳がありませんが、
 身には(式部少輔しきぶのしょう文章博士もんじょうはかせ加賀権守かがごんのかみという)三つの官職を帯びています。
 総じて言えば、
 (これらの)事は(帝の)恩情の賜物です。
 さらに帝の御命令を受け、
 仮に治部大輔と呼ばれ、
 渤海から入朝した大使裴〓と
 詩を贈答させられました。
 (私が詠んだ)詩は全部で九首、
 振り返れば恥ずかしい出来でした。
 そのためこの(「東閤」以下の)四句があるのです。〉

見識の低い人間は 道理も分からず惑うから うまく処置できないのだ(価値を見分けられないのだ)
太陽は (真実を写す)鏡を 蒼天のうてなに掛けている

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