山陰亭

原文解説口語訳

『菅家文草』03:184

予為外吏、       予外吏ぐわいりれども、
幸侍内宴装束之間、   幸ひに内宴に装束の間に侍し、
得預公宴者、      公宴に預るを得るは、
雖有旧例、又殊恩也。  旧例りといへども、また殊恩なり。
王公依次、行酒詩臣。  王公ついでり、酒を詩臣に行ふ。
相国以当次、      相国しやうこく次に当たるをもつて、
又不可辞盃。      また盃を辞すべからず。
予前佇立不行。     予の前に佇立ちよりつして行かず。
須臾吟曰、       須臾しゆゆ にして吟じていはく、
「明朝風景属何人」。  「明朝の風景は何人なんびとにか属さん」と。
一吟之後、命予高詠。  一吟の後、予に命じて高く詠ぜしむ。
蒙命欲詠、心神迷乱、  命を蒙りて詠ぜんとほつすれど、心神迷乱し、
纔発一声、涙流鳴咽。  わづかに一声を発するのみにして、涙流れて鳴咽す。
宴罷帰家、通夜不睡、  宴みて家に帰れども、通夜ねむられず、
黙然而止如病胸塞。   黙然とすれどもただ病むがごとくに胸ふさがるのみ。
尚書左丞、在傍詳聞。  尚書左丞、かたはらにりて詳らかに聞けり。
故寄一篇、以慰予情。  ゆゑに一篇を寄せ、以て予がこころを慰む。

自聞相国一開唇  相国の一たび唇を開きたまふを聞きしより
何似風光有主人  何ぞ風光の主人有るに似んや
忠信従来将竭力  忠信は従来もとより力をつくさんとすれども
文章不道独当仁  文章は独り仁に当たるとはず
含誠欲報承恩久  誠を含みて報いんと欲すれども 恩をくることのみ久し
発詠無堪落涙頻  詠を発してふることなく 涙を落とすこと頻りなり
若出皇城思此事  し皇城を出でて この事を思はば
定啼南海浪花春  さだめてかん 南海浪花らうか の春

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解説

 仁和2(886)年1月16日、道真は式部少輔しきぶのしょう文章博士もんじょうはかせ加賀権守かがごんのかみの三官に代わり、讃岐守さぬきのかみに任じられました。若くして学界の顕職を占め、曲がりなりにも得意絶頂の期にあった彼にとって、この人事は衝撃以外の何物でもありませんでした。
 式部少輔と文章博士については02:082「講書の後、戯れに諸進士に寄す」でも先祖伝来の職務のように述べていますが、加賀権守も同様の意味を持ちます。これは給料の加算が目的で現地へ赴任する必要のない遥任ようにんの官ですが、渤海ぼっかいからの使節団が到着する外交の玄関口であるため、北陸は文人が任じられる地域でした。加賀権守は父是善これよしも文章博士だった時に任じられており(『文徳実録』嘉祥3年10月1日条)、道真は父親と同じ国だったことに喜んでいます(『菅家文草』02:100「遥かに賀員外刺史を兼ねらるるを喜ぶ」)。つまりこの三官は紀伝道の嫡流たるべき自身にふさわしい職と道真は思っていたわけです。それがすべて奪われた挙句、地方に赴任しなければならない状況は、さぞ苦痛だったことでしょう。
 思えば祖父清公が播磨に赴任した時、「国の元老を遠くに住まわせるべきでない」という意見が公卿から出され、都に呼び戻されました(『続日本後紀』承和9年10月17日条清公薨伝)。さらに是善は地方官に任じられることはあっても、実際に赴任した機会はありません。それなのに自分は都を離れなければならない……。道真は打ちひしがれました。

 それから5日が経過した21日、宮中で内宴が催されました。本来地方官には参加資格はありませんが、道真は特別扱いで文人の列に加えられ、出席することになりました。「宮妓の『柳花怨』の曲を奏するを聴く」という題(『菅家文草』03:183)を与えられて詩を作り、艶やかな舞姫達を眺めながら独り現地に赴任しなければならない身の上を歎く前を、高官が酒を振る舞ってゆきます。その中に時の最高権力者太政大臣藤原基経もとつねがいました。彼は道真の前で立ち止まり、こう口ずさみました。「明朝の風景は何人にか属さん」。
 この詩は白居易が友人に贈った詩(『白氏文集』14:0745)の一節で、全体を意訳すると「お互い多忙でなかなか会えない、一緒に宿直して久々に会えたのに、朝が来ればまた離ればなれ、明日の朝の風景を鑑賞するのは一体誰なのだろう?」というもの。基経は詩の後半部「暁鼓一声 分散して去り/明朝の風景は何人にか属さん」に、別れを惜しむ気持ちを込めて吟じたのです。そして道真にも詠じるよう命じたのですが、口を開いたのも束の間、彼は人目を憚らずただ泣くばかりでした。帰宅した後も、息が詰まるような思いを胸に抱え、まんじりともせず夜を明かしたと言います。
 宴席で彼の横に座っていたのは、大学頭だいがくのかみ左少弁さしょうべんの藤原佐世すけよ でした。彼は道真の動揺ぶりを案じ、慰めようと詩を寄せました。

 以上の経緯は、題に詳しく書き留められていますが、返事として佐世に贈ったのが、後に続く七言律詩と思われます。感情の堰を切らせた基経の一言に焦点を当て、受けた恩に応えられず泣くだけだと胸の内を明かしています。佐世は基経の執事や家庭教師を務めたとも言われ、藤原氏で最初に学者となった人物ですが、わざわざ同情するような詩を贈ったのは、一部始終を目撃したからだけではありません。その背景については、続く03:185「尚書左丞の餞席にて、同じく『贈るに言を以てす』といふことを賦し、各一字を分かつ」で触れようと思います。

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口語訳

私は地方官となったが、
幸い内宴で仁寿殿じじゅうでんに侍り、
公宴に参加できたのは、
先例があるとはいえ、格別な御恩である。
高貴な方々は順番に従い、詩を作る者に酒を賜われる。
太政大臣(藤原基経)が次の番に当たっていたので、
また盃を断わることができない。
大臣は私の前にたたずんで動かない。
しばらくして詩句を吟じられた、
「明朝の風景は誰のものだろう」と。
一度吟じた後、私に命じて声高らかに詠じさせた。
私は御命令を受けて詩を詠じようとしたが、心は乱れ、
わずかに一声を発しただけで、涙が流れてむせび泣いた。
宴が果て帰宅したが、一晩中眠れなかった。
黙っていても、ただ病気になったように胸がふさがるばかりであった。
左少弁さしょうべん(藤原佐世すけよ )が、そばで一部始終を聞いていた。
そこで彼は詩一篇を送ってきて、私の気持ちを慰めてくれた。

太政大臣が一度唇を開き あの詩句を口にしたのを耳にして以来
どうして風景が自分のものになるのだろうか
真心は以前から力を尽くそうとしているが
文章はひとり仁を行っているとは言えない
誠心を胸に抱いて報いようとしても 恩を受けることばかりが久しく
詠じようとして耐えられず 幾度となく涙を流した
もし都を発って この事を思い出せば
きっと声をあげて泣いてしまうのだろう 南海の波の花咲く春に

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