尚書左丞餞席、
同賦「贈以言」、 同じく「贈るに言を以てす」といふことを
各分一字〈探得時字〉
讃州刺史自然悲 讃州の
悲倍以言贈我時 悲しみは
贈我何言為重宝 我に贈るに何の言をか重き宝と為さん
当言汝父昔吾師 「汝の父は昔
03:184「予外吏と為れども、...」に記すように、内宴で道真の隣に座っていた藤原
佐世が個人的に送別会を催したと見ることもできますが、この後、しばしば出入りしていた基経の東閣・職場である
題に「同賦」「各分一字」「探」とあるのは、全員が同じ題で詩を作り(同賦)、押韻する文字のうち1文字を個別に指定し(各分一字)、その文字はくじ引きで決める(探)というもの。宴などで詩を作る際に用いられる方法です。詩題は中国の古典から選ばれます。
老子は別れに際し、孔子に「優秀な人物でも、人を批判すれば身を滅ぼす」と告げました。その前置きとして、
吾 聞く、「富貴なる者 は人を送るに財を以てし、仁人なる者は人を送るに言を以てす」と。吾、富貴なること能 はざれば、仁人の号を窃 みて子を送るに言を以てせん。(『史記』孔子世家)
と述べました。私は金持ちではないから、仁者にならって言葉で見送ろう、というものです。
この「送人以言」「送子以言」が「贈以言」のもとになったと言われていますが(大系本頭注および佐藤信一氏「『菅家文草』巻三注釈稿(二)」「国文白百合」27、1996年3月)、「送」と「贈」では意味が異なりますから、出典と断言するには少なからず躊躇してしまいます。他の出典を想定するべきかもしれません。
それはともかく、第2句に「以言贈」と題の文字を詠み込んでいるので、古典の詩句を詩題とする
まず詠み込まれる題字の重複。「贈」は第3句、「言」は第3句・第4句にも使われます。句題詩に限らず、詩の中で同じ漢字を何度も使うべきでない、という見方もありますが、他の詩も含め、道真には同じ字を避ける意識が働いていないようです。第1句末の「自然に悲し」を第2句冒頭の「悲しみは倍す」で受け、第2句末の「我に贈る時」を第3句冒頭の「我に贈るに」に発展させるのも、その一端です。しかしそれでも28字の詩に3度の「言」は使い過ぎです。また韻字と題中の文字との結びつきの弱さも気になります。韻字の「時」は上平声四支韻ですが、題中の「以」は上声四紙韻であり、『王沢不竭鈔』に言うように、題中の文字、もしくはそれと同じ韻の文字を韻字に用いたわけではないのです。
後世の作例との共通点は、題の内容を詩で繰り返し描くこと、題字を詩に詠み込むこと、この2点だけでしょう。道真の句題詩を通観すれば何らかの法則性が見えてくる可能性がありますが、60首程度ありますので、作業は手控えておきます。
佐世が心許せる存在だからこそ、「私はあなたの父上の教え子です」と言われて余計悲しくなると正直に言えるのですが、祖父と父の後を受け、たった一人で菅家の学統を盛り立ててきたと自負する道真には、都を離れてしまえば伝統が途切れてしまうのではないかという不安がありました。そこで自分達の関係を心に留め、結びつきを再確認したのです。
なお、この「送る人」「送られる人」という構図は、数年後に逆転します。それについては05:357「左金吾相公、宣風坊の臨水亭に於て、...」をお読み下さい。
皆で「贈るのに言葉を用いる」を題に詩を作り、
各自に韻字一字を割り当てた〈探韻して「時」の字を得た〉
悲しみは増してくる あなたが餞別の言葉を私に贈る時に
私に贈るのにどの言葉が大切な宝物になるかといえば
きっと「あなたの父君は昔私の先生でした」という言葉だろう