山陰亭

原文解説口語訳

『菅家文草』04:260

言子  子を言ふ

男愚女醜稟天姿  男はおろかにして女はみにくし 天にけたる姿
依礼冠笄共失時  礼に冠笄くわんがい 共に時を失へり
寒樹花開紅艶少  寒樹かんじゆ 花開くも 紅艶こうえん少なく
暗渓鳥乳羽毛遅  暗渓あんけい 鳥乳すも 羽毛遅し
家無擔石応由我  家に擔石たんせき無く 我にるべく
業有文章欲附誰  業に文章有り 誰にかけんとする
此事雖同窮老歎  この事 窮老きうらうなげきに同じといへども
適言其子客情悲  たまたま その子を言はば 客情悲し

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解説

 仁和4(888)年の夏、讃岐にあって都に残る子供達を案じた詩です。道真44歳。親馬鹿になれず我が子の欠点ばかりが気にかかる父親の愚痴が綴られていますが、それだけに仕事一辺倒で家庭を顧みないような男ではなかったことが窺えます。

 学問は血筋と早期教育、すなわち環境が揃えば必ず身につくというものではなく、どうしても本人の能力に依存する部分があります。道真の子供は男女合わせて20人を超えますが(詳しくは『菅家後集』488「家書を読む」を参照)、それでも文章得業生もんじょうとくごうしょう(博士課程)にまで進んだのは2人。方略試ほうりゃくし及第(博士号取得)となるとわずか1人。すなわち、道真の跡を継いで紀伝道きでんどうの専門家として一人立ちできたのは淳茂あつしげ(?〜926)だけでした。
 加えてこの頃は、長男の高視たかみ (876〜913)とて元服前の13歳に過ぎず、どの子が菅家の後継者になれるかは確証が持てませんでした。文章博士だった頃は、学生相手に「息子は4歳で漢籍を読んだ」と自慢する余裕がありましたが(『菅家文草』02:082「講書の後、戯れに諸進士に寄す」)、それも父親の指導あってのもの。幸か不幸か、一族に何人もの学者がいる、あるいは同門が一致団結して家学の継承にあたるという環境にはありませんでしたから、父親不在の今、少年達がきちんと勉学に励んでいるかは心配の種でした。

 道真の讃岐赴任は私塾(廊下)の解体の危機を招きましたが、家庭内においても、成人式の機会を逃すどころか、後継者を育成する機会まで失うという深刻な問題に直面していました。道真が菅原氏の命運を一人で背負っていた弱味が、こんなところにも陰を落としていたのです。

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口語訳

子供の話をする

息子はぐずで娘は不細工 (これは)天から授かった(生まれつきの)姿
礼節に則《のっと》った成人の儀式も (父親が遠方にいるために)みな時機を逃してしまった
冬枯れた木に花が咲いても 華やかさに欠け(娘は年頃になっても色香が乏しく)
暗い谷間に鳥が育っても 羽が生えるのは遅い(息子は成長してもなかなか頭角を現さない)
家庭にはわずかの貯蓄もなく 私に頼っている
家業に文章がある (しかし)どの子に託せば良いのか
これでは老いの繰り言のようだが
不意に 子供の話をすると 旅人の心は悲しくなる

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