憶諸詩友、
兼奉寄前濃州田別駕 兼ねて
天下詩人少在京 天下の詩人 在京するひと
況皆疲倦論阿衡
〈伝聞、 〈伝へ聞く、
朝廷、令在京諸儒 朝廷、在京の
定阿衡典職之論。〉 阿衡
巨明府劇官将満
安別駕煩代未行
南郡旱災無所与 南都の
東夷〓俗有何情 東夷の
君先罷秩多閑暇 君
日月煙霞任使令
仁和4(888)年、都に大混乱を引き起こしていた
忠臣は道真の父
学統・姻戚関係・詩人仲間と、三重四重に結ばれた忠臣は、この時、
阿衡の紛議の顛末については「左金吾相公、宣風坊の臨水亭に於て、...」(05:357)で詳しく書きましたが、都の動静は、家族からの手紙などを通じ(04:261「家書を読み、歎く所有り」)、道真にも伝わっていました。藤原
しかし道真を悩ませたのは、政界の紛糾だけではありませんでした。この年、讃岐では春から夏にかけて雨が降らず、旱魃の被害が発生していたのです(『菅家文草』04:255・262・276・277)。道真は為政者として責任を痛感し、梅雨時の5月6日、讃岐国府の近くにある
いきなり「天下の詩人が京都にいるのは稀だ!」と詠い始めるのは、「詩人」の名に値する人物が揃って地方に赴任しているからです。都にいる学者達は「阿衡は名誉職か否か?」と字句の詮索に明け暮れ、詩人と呼べるのは埒外に立つ忠臣ただひとり。そして視点を都の外に移せば、確かに詩人がいます。しかし「巨明府」は仕事に忙殺されて動けず、「安別駕」は行動を起こさないまま、ただ事態を傍観するばかりです。
この「巨明府」は
ただ、この点を除けば、文雄と興行である蓋然性は非常に高いです。道真と同じく
続けて渇水対策に手を焼く自分と対比させて東国の野蛮な風俗を取り上げます。忠臣が赴任した美濃国や興行の上野国は「東国」ですが、前任者に過ぎない忠臣で現在進行形の問題を扱ったり、先に登場した興行を再登場させるのも奇妙に感じます。もうひとり別の「詩友」が東国に赴任しており、そこで何らかの反乱があったと考えた方が適切でしょう。平安時代を通じて関東・東北は朝廷の支配に反発する傾向がありますが、出羽国で圧政に耐えかねた民衆が蜂起し、藤原
最後の2句で道真は忠臣に話を向けますが、文字通り「仕事とは無縁の自由な立場なら存分に詩が詠めて羨ましいですね」と言っているようには思えません。阿衡論争で疲れ切った在京の学者達や、在地で職務に振り回される自分達とは異なり、天下一等の詩人として、混迷の度を深める現状を詩で批判して欲しいと訴えているのではないでしょうか。忠臣にすれば、藤原
議論ばかりで詩を詠まない学者に対する道真の批判は凄まじいものがありますが(02:094「詩を吟ずることを勧め、紀秀才に寄す」を参照)、地方で王道について論じる(04:261「家書を読みて歎く所有り」)「南海の閑人」(『菅家文草』04:264)は事態を看過することもできず、さりとて立場上介入する訳にもゆかず、在京の詩人に収拾を依頼したと読めそうです。忠臣は積極的に行動するタイプではないので、依頼する相手としては無理があると思いますが、これがもし、本当に「あなたは世間に背を向けて詩を詠めば良い」という意味なら、道真の諷諭詩人の側面は崩壊していたことになります。しかしこの半年後、国司の仕事を放り出してまで都に戻り、基経に意見書を叩き付けたことを思うと、そうは考えられないんですね。
数多の詩の友を思い、
併せて前美濃介島田(忠臣)殿に差し上げる
天下の詩人で 都にいる者は稀ですが
まして(昨今の情勢では) (都にいる学者達は)皆阿衡(に職務権限があるかないか)の議論に疲れて嫌気が差しているのではないですか
〈伝え聞いたところでは、
朝廷が、都にいる学者達に
阿衡の職掌について見解を示させたとか。〉
越前守巨勢(文雄)殿は多忙な職も(間もなく)任期満了を迎えますし
上野介安倍(興行)殿は煩わしい時代に行動を起こしません
(私は)南都(讃岐)で旱魃に打つ手なく
東国の異民族の粗野な風俗はどんな本性あってのものでしょう
(しかし)あなたは 先だって職をやめ お暇なことでしょう
日月靄霞(といった自然の風物)は (詩の題材として)思いのままにお使い下さい