読家書、有所歎 家書を読み、
一封書到自京都 一封の書
借紙公私読向隅 借紙の公私 読みて隅に向かふ
児病先悲為遠吏
論危更喜不通儒 論危うくして
豈憂伏臘貧家産
唯畏風波嶮世途
客舎閑談王道事 客舎にて
応羞山近似樵夫 山近くして
仁和4(888)年6月、讃岐に赴任していた道真のもとに、自宅から一通の手紙が届きました。一読した後、その手紙を題材にして詠んだ詩です。
一度使用した紙を再び漉き直した紙には家庭の状況から都の情勢まで細々と綴られており、人に見られまいとすると、つい部屋の隅に寄ってしまいます。まず知らされたのは子供の一人が病気になったこと。先立つ04:260「子を言ふ」において、成人式を行う時宜を逃してしまった子供達のことを案じていた道真にすれば、父親でありながら、
しかし子供の病気以上に道真をやきもきさせたのは、混迷を深める都の現状報告でした。老若男女を問わず、都では
太政大臣が本当に問題としているのは何か考慮せず、ただ「阿衡」の語句の詮索に終始する専門家の態度に、道真は苛立ちを隠せませんでした。その中には、藤原
そんな道真が明け暮れに案じるのは、家計などではなく、世間の風の厳しさでした。以前から、儒者と詩人を兼ねた存在であろうとして、道真は「詩など何の役にも立たない」という詩人無用論の吹き荒れる風潮に厳しく対峙していました。その結果生じた艱難辛苦は、文章博士時代の02:087「博士難」・02:098「思ふ所有り」・02:118「詩情怨」の古調詩3部作にも窺われ、後の05:352「金吾相公、愚拙を棄てず、...」・06:464「近院山水障子詩(3)閑適」の詩に見える
この行路難意識の激しさは、道真の特徴として指摘されるところです。しかしこの激しさなくして、「法律に記載されていなくても太政大臣は太政官を総覧する立場にある」「史書には『阿衡』を職務権限を有する職とする事例がある以上、四書五経と齟齬しても良い」「検税使を派遣するよりも地方の自主性に任せたい」といった、現実に即して問題を大局的に捉える思考は生まれてこなかったでしょう。
妬みひがみで足の引っぱり合いを繰り返す学界を尻目に、道真は讃岐国府の官舎で政治のありようについて語ろうとします。確かに国府は山に囲まれた地にありますが、「
なお、この騒動に関して、在京中の岳父
家からの手紙を読み、嘆く
一通の手紙が 都から届いた
子供が病気になり (父親が)遠方の役人であることが悲しくなるが
(都での「
どうして 真夏真冬(の折り)に家計が貧しいと案じようか
ただ 人生という旅に寄せる風や波の厳しさが恐ろしいだけだ
(讃岐国府の)官舎で静かに語るのは (徳によって世を治める)王道政治のこと
(しかしこう)山が近いと(政治を論じていても)まるで木こりじみているのが情けない