近院山水障子詩(3) 閑適
曾向簪纓行路難
如今杖策処身安
風松颯颯閑無事
請見虚舟浪不干
昌泰2(899)年、道真55歳の時の作です。この年の2月14日に人事異動があり、藤原時平が左大臣、道真が右大臣となりました。『公卿補任』により台閣の構成を示せば、次の通り。
藤原時平(29) | 大納言 → 左大臣 | 北家・太政大臣基経の嫡子 |
菅原道真(55) | 権大納言 → 右大臣 | 参議是善の嫡子 |
藤原高藤(62) | 中納言 → 大納言 | 北家・基経の従兄弟・天皇の外祖父 |
源光(55) | 権大納言 → 大納言 | 仁明天皇皇子 |
藤原国経(72) | 中納言 | 北家・基経の異母兄 |
源希(51) | 参議 → 中納言 | 嵯峨天皇の孫・大納言弘の子 |
藤原有実(52) | 参議 | 北家・基経の従兄弟 |
源直(70) | 参議 | 嵯峨天皇の孫・左大臣常の子 |
源貞恒(44) | 参議 | 宇多上皇の兄 |
十世王(67) | 参議 | 宇多上皇の伯父 |
藤原有穂(62) | 参議 | 北家 |
源湛(55) | 参議 | 嵯峨天皇の孫・左大臣融の子 |
源昇(41) | 参議 | 嵯峨天皇の孫・左大臣融の子 |
実は源希も藤原有実から源湛までの6人を抜いての中納言抜擢なのですが、批難の鉾先が向けられたのは、やはり道真でした。彼は高官に任じられた際の慣例にならって三度辞表を提出しました(『菅家文草』10:629「右大臣の職を辞するの第一表」〜10:631「重ねて右大臣の職を解かれんことを請ふの第三表」)が、それらに共通して述べられているのは、学者出身の人間が宇多上皇の恩顧により高い地位を占めている現状に、他の貴族が強い不満を持っている事実でした。「右大臣に任ぜられてからというもの、何一つ楽しいことはなかった」という翌年9月の告白(『菅家後集』473「九日後朝、同じく『秋の思ひ』を賦す、制に応ず 」)もそのことを物語っています。
逃れようのない薄氷の上に座ることを余儀なくされていた道真に、故右大臣
ちょうど4年前の寛平7(895)年、当時は父親への贈り物として屏風を作りましたが、それは題材を
今回の連作6首には後藤昭雄氏の論文がありますが(「菅原道真の『近院山水障子詩』をめぐって」『平安朝漢文学論考』、初出1977年)、それは詩の内容そのものよりも、困難の多い人生を旅路に例えた「
前回の屏風は異郷に暮らす神仙達、今回の衝立は、隠遁生活の舞台となる自然を描いたものでした。同じ山水画でも、中国古典のエピソードに基づく前者に比べ、後者はより自然描写に力点を置いたはずですが、道真は一点景に過ぎない隠遁者の姿に着目します。この老人は早くに俗世間を離れたかも知れない、それなのに「昔はこの人も宮仕えで行き悩んだのだ」と考えます。
実際に
昔は
今は
ご覧なさい