山陰亭

潮江天満宮(5KB)
潮江《うしおえ》天満宮

所在地:高知市天神町
 交通:土佐電鉄伊野線・大橋通電停下車

鏡川に華あり高見町放浪始末

鏡川に華あり

(傾向)複雑なようで単純明快。
(対策)経験談をおろそかになさらぬように。

 桟橋線・梅の辻電停からもほぼ同距離ですが、道はおろか入り口さえ分かりにくいです。いっそのこと鏡川を自力で渡ってしまいましょう。
 路面電車を降りて大橋通り商店街とは逆方向に進むと、はりまや橋よろしく朱色に塗られた橋があります。これが天神大橋。なるほど「大橋通り」の名前もここに由来するのでしょうが、天神の名を冠するだけあって、渡り終えるとすぐ右手から境内に入ります。

 長い参道を歩いて行くと、まず手水所が目につきます。ローカルな神社ばかり見ていると、よく手水が止められていて、仕方ないなと思う反面かなり困るのですが、珍しく水が流れている。単純に感心していたら、何のことはない、赤外線で人の動きを感知し、人がいれば水を流すハイテク仕様でした。

楼門(6KB)
楼門

 さてその先には楼門があります。空襲などで焼失し、戦後再建された建物ばかりの中では、江戸時代末とはいえ、藩主山内家の遺産です。川の向こうには高知城もありますし。正面を向いている巨大な鳳凰は見逃さないでおきましょう。

楼門の鳳凰(4KB)
楼門の鳳凰
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高見町放浪始末

(傾向)書籍の記述もなかなかアバウトで困る。
(対策)地図に載っていないところは避けた方が賢明かも。

 この神社の創建の経緯については嶋岡晨『菅原道真』のあとがきにも詳しいのですが、補足を兼ねてあれこれ書いておきます。
 道真の長男・菅原高視たかみ (876〜913)は大学頭だいがくのかみ右少弁うしょうべんでしたが、延喜元(901)年正月、道真に連座して26歳で土佐介に左遷されます。文章得業生もんじょうとくごうしょうに選ばれながら方略試ほうりゃくしを受験せずに任官した背景には、父親が急激に出世したという特殊事情があるのでしょうが、文章得業生になったのが寛平5(893)年2月4日(古藤真平氏「八・九世紀文章生、文章得業生、秀才・進士試受験者一覧(稿)」「国書逸文研究」24、1991年10月)と言いますから、18歳です。父道真が23歳、祖父是善これよしが22歳の時でしたが、これでも早い方ですから、驚くべき若さです。「博学洽聞、文花家を承く」(「北野天神御伝」)と評されただけのことはあります。

 道真の没後、大宰府から遺品が届けられ、それを御神体として祭ったのが起こりです。
 もともと竜神を祭っていた場所らしいのですが、現在は道真夫妻と高視を主祭神としています。拝殿の左脇奥に石牛の親子が座っているので、ご挨拶がてら近寄って本殿の方を見ると、確かに幣が3本。北野天満宮だと覗きようもないので、妙なところで納得させられます。

 延喜6(906)年、詔によって帰京を許されるまで住んでいた場所と伝えられるのが、天満宮の南、高知市北高見町の通称小判畑なのですが、皿ケ峰の東側、中高見バス停の辺りまで行ったものの、結局わからずじまい。なぜか墓まであるというので興味はあったんですが、あまりに恥ずかしくてスタッフに詳しい場所を聞けなかった結果です。

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